6/02 パリのコンデ通りのコンデ館に生まれる
6/03 サン・シュルピス教会にて洗礼
ラングドックの祖母のもとに送られる
エルブイユの修道院で父方の叔父に当たるジャック・フランソワ・ポール・アルドンスのもとにひきとられる
パリに戻り、イエズス会の中学ルイ・ル・グラン校に入学。かたわら、家庭教師、アンブレ師につく
5/24 近衛軽騎兵連隊付属の士官学校に入学
12/14 近衛騎兵連隊の無給の少尉に任官する
1/14 サン・タンドレ旅団重騎兵連隊の旗手に就任
プロシアとの7年戦争に従軍
4/21 ブルゴーニュ騎兵連隊の大尉に昇進す
3/15 7年戦争の終結に伴い、騎兵連隊の大尉として退役する
ロリス嬢との恋愛
5/17 王家の許可を得て、終身税裁判所名誉長官モントルイユの長女ルネ・ぺラジー・コルディエ・ド・ローネー嬢と、パリのサン・ロック教会にて結婚式を挙げる
マレー警部の尾行の始まり、その後数年に渡って続く
10/18,19 サドの最初のスキャンダル、ジャンヌテスタル事件
10/29 ジャンヌテスタル事件でヴァンセンヌの獄に収容される
11/13 モントルイユ夫人の運動により、エショフールにとどまることを条件に、釈放される
4月 パリ滞在を許可される
5月 ブルゴーニュ高等法院にて、ブレス、ビュゼ、ヴァルロメ、ゼックスの地方国王代理官となる
6月 ディジョンへ旅行
パリ、イタリア座の女優コレット嬢との恋
5月 ラ・コストにてボーヴォワザンと遊興。たびたびの旅行に多額の金を使い、借金をする 1/24 モントルイユにて父伯爵死去。唯一の遺産相続人として、ラ・コスト、マザン、ソーマーヌ等の領主になる 1/24 コンデ館で長ルイ・マリー洗礼 ラ・コストにて遊ぶ。負債さらに増 中隊長として、再度コンピエーニュの騎兵連隊に復帰 3/13 騎兵連隊大佐に任命される 1/20 ラ・コストにて、サドの最初の戯曲上演 3月 サド侯爵夫人、男に変装してシャンベリーに到着 1/6 夜、パリ警察の警官隊、ラ・コストの城を捜査する 少女スキャンダル 1月末、ナポリに到着。古美術品を買いこみ、公金横領人と間違われる 1/14 パリにて実母サド伯爵夫人死去 1/3 叔父のポール・アルドンス神父、ソーマーヌにて死去 ルーセ嬢と文通するようになる この年より未発表の戯曲多数執筆 5/13 午後1時頃アンヌ・プロスペル・ド・ローネー嬢、天然痘で死去 書物はサドに不当な文章を書かす悪影響を与えると言う理由で、部屋のすべての叢書を取り上げられる 2月 眼病を患い始める 1/25 マリー・ドロテ・ド・ルーセ嬢、ラ・コストの城にて死去 10/22より「ソドムの120日」の浄書に入り、37日間で完成する 5/23 一日一時間の散歩を許可される 「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」 7/2 牢獄の窓からメガフォンを用いて群がる民衆に向かって大声で演説する 3/18 息子二人シェラントン訪問。 「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」が匿名で出版。サドの初出版となる 3/5 戯曲「誘惑者」がイタリア劇場で初演されたジャコバ派に騒がれて失敗 2/26 市民カレ、デゾルモーとの協力により、パリ内の病院、療養所を視察し、結果を報告する 1/13 レ・カルム僧院に送られる 8月 「アリーヌとヴァルクールあるいは哲学小説」出版(印刷は1793年) 3/14 マリー・コンスタンス・ルネルとクリシー・ラ・カレンヌに別荘を借りる 「新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸、またはその姉ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」匿名で出版 9/10 貧乏によりサン・トゥアンの自宅を売り払い、夫人は友人の家に、サドはボース地方の小作人の家に、別居する 1月 ケネー夫人の連れ子シャルルと共にヴェエルサイユの屋根裏部屋に住み、極貧の内に冬を過す 貧乏のどん底に陥り、ヴェルサイユの慈善病院に入る 3/6 「新ジュスティーヌ」を出版したマッセ書店が警察の捜査を受ける。その場に居合わせたサドは逮捕される。サン・トゥアンの自宅の直筆原稿は全て押収される 3/6 ビセートル獄に移される 院長クールミエの好意で、病院内に劇団を組織して、芝居を上演する。パリから著名人たちが見物に来る(〜1813) 1/13 遺言状をしたためる 4/25 「エミリーの物語」の浄書終了 6/17 息子の武功を知り、ナポレオンに健康を理由に釈放を要求する 6/9 長男ルイ・マリー南イタリアで戦死する。享年42歳 7/7 エショフールにてサド侯爵夫人死去。享年69歳 3/31 「新ジュスティーヌ」の新版が流布し、サドはシェラントンで何回か訊問を受ける 「サックス侯女、ブルンスウィックのアデライド」 「フランスの王妃イザベル・ド・バヴィエールの秘史」、「ガンジュ侯爵夫人」匿名で出版 5/31 院長クールミエ辞任。ルラック・デュ・モーパが新院長に就任
8月 恋人とパリへ
9月 エショフール城に滞在
11月 パリ、ヴェルサイユに
1766(26歳)
1767(27歳)
4/16 騎兵連隊長に昇任
4/20 リヨンでボーヴォワザンと密会
6月 ラ・コスト城
8/27 パリにて、長男のルイ・マリー誕生
1768(28歳)
4/3 アルクイユ事件。復活祭の日に女乞食ローズ・ケレルとスキャンダルをおこす
4/7 ローズ・ケレル、2400リーブルの慰謝料で出訴を取り消す
4/12 ソーミュールの城に拘留
4/30 ソーミュールからピエール・アンシーズ要塞に移される
6/8 パリのコンシェルジェリー監獄に移される
6/10 パリ高等法院判事ジャック・ド・シャヴァンヌによる訊問
6/11 ピエール・アンシーズ要塞に移される
11/16 プロヴァンスの領地を離れないことを条件に、釈放される
1769(29歳)
5月 パリ
6/27 パリにて、次男のドナチアン・クロード・アルマン誕生
9,10月 ネーデルランド旅行
1770(30歳)
1771(31歳)
4/17 パリにて、長女マドレーヌ・ロール誕生
9月 ラ・コスト城にやって来たサド侯爵夫人の妹アンヌ・プロスペル・ド・ローネーとの恋愛
1772(32歳
6/27 マルセイユ事件。ソドミーと毒殺の疑いで告訴
7/4 サドと共犯である下男のラトゥールに逮捕状が発せられる
7/11 ラ・コストの城が捜査される
7月 妻の妹アンヌ・プロスペル・ド・ローネー嬢と共にイタリアに逃亡
9/3 サド不在の内に裁判。サドとラトゥールは毒殺未遂とソドミーの罪により死刑の判決をうける
9/12 エックスのプレシュール広場にて、サドとラトゥールの肖像画が火刑に処される
10/2 アンヌ・プロスペル・ド・ローネー嬢だけラ・コストの城に帰還
10/27 サルデニア王国領、シャンベリーに到着
12/8 義母モントルイユ夫人の依頼により、サルデニア王、シャンベリーにてサドを逮捕
12/9 サヴォワ州のミオラン要塞に送られる
1773(33歳)
3/7〜14 サド侯爵夫人、再度にわたって夫との面会を要求するが、拒絶される
4/30 午後8時半頃、ラトゥールと同囚ラレ・ド・ソンジ男爵と共にミオラン要塞より脱出
11月 モントルイユ夫人の要請により、サドの身柄を逮捕するための勅命拘引状が発行され
1774(34歳)
サド、プロヴァンス地方を転々と逃げ回る
11月、夫人とリヨンで落ちあい、ラ・コストへ帰る。途中、5人の娘と1人の少年を使用人として雇い、連れていく。
サド領の新しい管理人にゴーフリディが就任
1775(35歳)
5/11 女中のアンヌ・サブロニエールが女の子を出産。サドの子と噂される。子供は3カ月で死ぬ(7/30)
7月 モントルイユ夫人が新たに逮捕命令を出す
8月、マザン伯爵という偽名を用いて、下男のカルトロンと共に、イタリアに逃亡
1776(36歳)
6月 フランスに戻る
7月 ラ・コスト城に戻る
このころ、サドが信仰生活に入ったという噂が立ち始める
10月 モンペリエ。前年までラ・コストで働いていた女中ロゼットと再会
11/4、ラ・コストに戻る。財産困難
1777(37歳)
1/17 女中カトリーヌ・トリレの父親が城にどなり込み、サドと口論の末、サドに向かってピストルを2発撃つ。弾は幸い外れた
2/8 サド夫妻パリに行き、母の死を知る
2/13 ジャコブ街のダヌマルク旅館でマレー警察官に逮捕され、ヴァンセンヌの牢獄に連れて行かれる
1778(38歳)
6/20 マルセイユ事件による死刑判決の破棄を上告するため、マレーに伴われエックスに行く
6/30 プロヴァンス高等法院に出廷する。マルセイユ事件の判決が破棄される
7/14 最終判決、罰金50リーヴルを科せられ、向こう3年間マルセイユを追放される
7/15 前日の判決にもかかわらず、再びヴァンセンヌに送られることになった
ヴァランスに滞在中、逃亡
7/18 ラ・コストに到着。家政婦のマリー・ドロテ・ド・ルーセと共に暮らす
8/26 午前4時頃、ラ・コストにてマレーに逮捕される
9/7 ヴァンセンヌの牢獄に収容される。11年間の拘留の始まり
12月 紙とインクの差し入れを許可され、週に二度、散歩が許可される
1779(39歳)
3/29 散歩が週3回まで許可される
7/15 散歩が週5回まで許可される
11/9 サドのいわれなき非難の手紙により、ルーセ嬢との文通が途絶える
12月 ルーセ嬢、病床につく身となる
1780(40歳)
マレー警察官死去
4/21 ル・ノワール警視総監が訪れ、まもなく夫人との面会が許可されると報告される
4/25 ヴァンセンヌにて、毎日の散歩を許可される
6/26 獄守と喧嘩し、散歩を禁止される
6/28 牢獄の窓から庭を散歩中のミラボーに向かって悪態をつく
1781(41歳)
6月 ルーセ嬢との文通が再開される
7/13 サド侯爵夫人、初めてサドと面会を許される(4年5カ月ぶりの再会)。サドの嫉妬の始まり
10月 ル・ノワール警視総監、サドの強度の嫉妬による暴行を理由に、再び夫人の面会を禁じる。夫人は夫の疑いを晴らすためにサン・トールの修道院に入る
1782(42歳)
1月 「哲学の贈り物」
7/12 「司祭と臨終の男との対話」その他の草稿を書き終える
「ソドムの120日」を書き始める
1783(43歳)
1784(44歳)
2/29 バスティーユの自由の塔の3階に移される
3/16 サド侯爵夫人、一月に2度の面会を許可される
1785(45歳)
1787(47歳)
7/8 15日間で138ページの中編小説「美徳の不運」を執筆する
1788(48歳)
3/1〜3/7 短編「ユージェニー・ド・フランヴァル」を書き上げる
9/22 「自由の塔」の7階の独房に移る
10/1 自らの「解説つき作品目録」を作成する。「アリーヌとヴァルクールあるいは哲学小説」完成
1789(49歳)
7/4 典獄ド・ローネーの怒りを買い、シャラトン精神病院に送られる。その際、すべての原稿や書物は持ち出しを許可されなかった
7/14 フランス革命勃発、バスティーユ襲撃。サドの部屋は荒され、原稿は散らされる
1790(50歳)
4/2 憲法制定審議会の訓令により、釈放されて自由の身になる
4/3 サン・トール修道院のサド侯爵夫人、夫との面会を拒否する
5月末 オノレ・シュヴァリ街のフルリュー夫人の家で同棲を始める
6/9 サド侯爵夫人、サドとの別居と財産の分割をパリ裁判所に申請して、許可される
8/17 友人の俳優ブーテ・ド・モンヴェルの仲介により、コメディ・フランセーズにて自作の戯曲「閨房あるいは信じやすい亭主」を朗読する
9/16 コメディ・フランセーズにて「ゾフィーとデフラン」1回限り上演
若手女優マリー・コンスタンス・ルネルとの長年に渡る交際の始まり
11月 ヌーヴ・デ・マテュラン街の彼女の家で同棲をする
1791(51歳)
10/22 バスティーユで書いた戯曲「オクスティエルン」がサンマルタン街のモリエール座で初演される
11/4 「オクスティエルン」再演
1792(52歳)
9月 ラ・コスト城の掠奪。残った財産の押収
9/3 ピック地区の書記となる
10/25 病院管理会医員に任命される
11/2 ピック地区の総会で自作のパンフレット「法律の認可方法についての意見」を朗読する
1793(53歳)
4/13 告発審査委員に任命される
7月 ピック地区の委員長となる
8/2 委員長の座を降りる
9/29 ピック地区総会にて、サドの「マラーとルペルティエの霊に捧げる演説」の発行が決定される
11/15 他の代表と共に議会に赴き、自作のパンフレット「ピック地区よりフランス国民代表への請願」を読み上げる
12/8 反革命のマテュラン街の自宅にて逮捕され、マドロネット修道院に監禁される
1794(54歳)
1/22 サン・ラザール監獄に送られる
3/27 病気を理由に、ピクピュス療養所に移される。そのため、7/26の死刑判決を免れた
10/15 過激派の失脚後、釈放。財産の差し押さえ解除
1795(55歳)
「閨房哲学」匿名(「ジュスティーヌ」の著者により)で出版
亡命していた長男のルイ・マリー帰国
1796(56歳)
10/13 ボンニュー選出代議士ロヴェールにラ・コストの城と土地を58,400リーブルにて売却
1797(57歳)
4月 ケネー夫人と共にサン・トゥアンのリベルテ広場に引越
6月〜10月 ケネー夫人とプロヴァンス旅行
1798(58歳)
1799(59歳)
2月 ヴェルサイユの芝居小屋に雇われる
8/29 雑誌「法の友」でポールティエがサドを攻撃。サド、「ジュスティーヌ」の著者であることを否定
12/13 ヴェルサイユの演劇教会劇場にて「オクスティエルン」再演。自らファブリス役で出演する
1800(60歳)
5月 ゴーフリディ、プロヴァンス地方の財産管理人を辞める
10月 短編集「恋の罪」刊。ヴィルテルクの攻撃的記事。それに対するサドの反論「愛の犯罪者から三文文士ヴィルテル君へ」
1801(61歳)
3/7 訊問
4/2 サント・ペラジーの牢獄に送られる
1803(63歳)
4/27 サドの身体を危惧した家族のリクエストにより、シェラントン・サン・モーリス精神病院に移される。賄費は家族負担。以後10年8カ月の余生をここで過すことになる
1805(65歳)
1806(66歳)
3/5 「エミリーの物語」を浄書し始める
1807(67歳)
6/5 シェラントンのサドの部屋が捜査される。「エミリーの物語」も押収され、サドの死後、焼かれる
6/14 長男ルイ・マリー、ポーランド第二歩兵連隊大尉、フリーランド戦で負傷
1808(68歳)
8/2 シェラントン病院の医師ロワイエ・コラール、治安大臣に汚らわしい小説「ジュスティーヌ」の作者であるサドを他の場所に移してほしいと手紙を送る
9/11 ロワイエ・コラールの申し出により、治安大臣フーシェはサドをアン城砦に移すことを決定するが、タラリュ夫人やクールミエ院長の反対により中止になる
9/15 次男ドナチアン・クロード・アルマン結婚
1809(69歳)
1810(70歳)
10/18 内務大臣モンタリヴェ、サドの監禁をもっと厳重にするように院長に勧告
1811(71歳)
1812(72歳)
4/19、5/3に行われた会議でナポレオンはサドの留置を主張
11/15 マドレーヌ・ルクレールの訪問が始まる
1813(73歳)
5/6 シェラントンでの演劇活動を一切禁止される
5/15 マドレーヌ・ルクレールと深い関係に陥る
1814(74歳)
11/27 マドレーヌ・ルクレール最後の訪問
12/1 健康が衰え、歩行不能にまで陥る
12/2 次男アルマン、病床の父に面会。医学生ラモンに看病を依頼する
同日午後11時頃、死去
ラモンの診断によれば喘息性肺栓塞
12/3 シェラントンの公証人フィノ氏、息子アルマン、ケネー夫人、その子シャルルの立会のもとに、サドの遺言状が開封される
12/4(あるいは5日) シェラントンの墓地に埋葬される。家族はサドの霊を恥じていたので、墓石には名前すら彫られなかった
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