人 物 辞 典

People Around le Marquis de Sade


●サド家の人々(及びその親類関係)
●サド侯爵と関係のある女性達
●サド侯爵と関係のある男性達
●国家権力者達
●その他
●サド侯爵の死後、関った人々

●もどる


このページの一番下に行く

サド家の人々(及びその親類関係)


ユーグ・ド・サド伯爵(Hugues de Sade)

通称「老ユーグ」。14世紀、サドの直系祖先の一人。父親はアヴィニョンの市長。イタリアの有名な詩人であるペトラルカが愛し、その絶唱「ソネット或はカンツォー二」にも歌われた美女、ロールをものにした人物として知られる。ロールとは1325年1月16日に結婚し、11人の子供をもうけた。1348年4月6日、ロールが死んだ後も再婚し、ららに6人の子供をもうけている。


ジャン・バティスト・ジョセフ・フランソワ・サド伯爵(Jean-Baptiste-Joseph-Francois, Comte de Sade,1702〜1767)

サドの父。プロヴァンス地方の貴族であったが、1733年サドの母と結婚して王家との関係を持つ。軍人、及び外交官の中堅として勤務。資料によれば「几帳面で、やや陰気臭く、尊大で、厳格で、甚だしい浪費家」であったが、有能な外交官でもあったという。1767年1月24日、ヴェルサイユの近くで65歳で死去。晩年はかなり金に困っていた。


マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(Marie-Eleonore de Maille de Carman,1712〜1777)

サドの母。大コンデ家と血縁のあるマイエ・ド・カルマン家の出身。結婚後はコンデ内親王の話し相手の女官として出仕。いつの頃からかサド伯爵とは不仲であったらしく、夫の手紙に彼女をして「恐ろしい女だ」と言う記述が残っている。1740年代の後半よりカルメル修道院に入り、一生そこを出なかった。1777年、65歳で死去。


ジャック・フランソワ・ポール・アルドンス(Jacques-Francois-Paul-Aldonse,1705〜1778)

エルブイユの修道院長で、サドの父伯爵の弟。28歳までパリで放蕩生活を送った後、1733年に聖職者になった。ヴォルテールの友人で、14世紀、イタリアの詩人、ペトラルカの研究家。著書に「フランチェスコ・ペトラルカの生涯」がある。サドは5歳から10歳までのあいだ彼の元に引き取られ、そこで幼少の多感な時期を過した。文学好きの放蕩者であった彼からサドが受けた影響は大きいと思われる。サドが成長した後も、二人は何度となく放蕩生活を共にしている。1762年には放蕩の罪で投獄もされている。


ルイ・マリー・ド・サド(Louis Marie de Sade,1767〜1809)

パリ生。サド侯爵の長男。1783年、父の反対を押しきって、ロシアン・スビーズ歩兵連隊に入隊する。軍隊では、父のことを恥じていたのか、「サド・ド・マザン」という仮名を使っていた。革命中1791年9月から1795年まで国外に逃亡。ナポレオン政権の下、再び軍職につき、各地の戦闘に参加。1809年6月9日、42歳で南イタリアのメルクグリアノ付近で戦死する。「フランス国家の歴史」という著書がある。


ドナチアン・クロード・アルマン・ド・サド(Donatien-Claude-Armand de Sade,1769〜1847)

1769年6月27日パリ生。サド侯爵の次男。1808年、親類のルイズ・ガブリエル・ロール・ド・サド・デギエールと結婚。家の名誉のことを第一に考え、 父の悪評を恐れた。サドの死後、サドの遺言も守らず、シェラントン精神病 院の入院費も払わず、おまけにサドが生涯の内で書いた最も長い文学作品「エミリーの物語」を警察に要請して焼いてしまったという不届き者。1835年、伝記作家ミショーが「綜合人物辞典」の企画をたてていたときも、手紙で「どうか父の名前だけは出さないで下さい」と頼んだりしている。1847年5月10日、78歳で死去。


マドレーヌ・ロール・ド・サド(Madeleine-Laure de Sade,1771〜1844)

1771年4月17日パリ生。サド侯爵の長女。生まれるとすぐに里子にやられたため、父であるサドはほとんど彼女のことを知らなかった。器量も良くなく、知恵も遅れていたらしい。1790年、牢獄から釈放されて娘に再会したサドは、「娘は精神においても容貌においても太った百姓そのままだ」と感想を述べている。1844年1月18日、エショフールで死去。サド侯爵夫人と同じ墓に葬られた。


ルイーズ・アルドンス・ド・サド(Louese Aldonse de Sade)

サドの祖母。サドは幼少の頃ラングドックの彼女のもとに預けられた。サドは後に「祖母の余りにも盲目的な愛情が、私のあらゆる欠点を育て上げた」と書いている。


サン・ジェルマン夫人

サド家の親類。サドを子供の頃から知っていて、サドもこの老婦人を愛していた。サドがアルクイユ事件をおこして人々の非難の的になっていたときも、手紙の中で「彼は民衆の憤激の犠牲者だ」と言って弁護している。




TOP

サド侯爵と関係のある女性達


ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユ(Renee-Pelagie Cordier de Launay de Montreuil,1741〜1810)

12月3日生。云わずと知れたサド侯爵夫人。1763年にサド侯爵と結婚。サドを愛し、20年以上もの間夫に献身した。サドも彼女のことを嫌ってはいなかったが、性格的に「余りに冷たく、信心深く」、しかも特別器量もスタイルもよくなかった彼女をサドは物足りないと感じていたようである。サドがいかなるスキャンダルを起こそうとサドの立場にたって弁護し、獄中のサドを自由にする運動を怠らなかった。サドの文学活動に関する理解はなく、サドが大切に保管するようにと獄中からこっそり渡した原稿の多くを不注意な扱いをしてなくしている。サドが自由になった直後の1790年、別離の意志を表明し、修道院で余生を過した。69歳でエショフールにて死去。


マリー・マドレーヌ・コルディエ・ド・モントルイユ(Marie-Madeline Cordier de Montreuil)

モントルイユ夫人。サド侯爵夫人の母。野心にあふれ、王家とのコネクションを目当てにサド家との縁談をすすめる。最初はサドを気に入っていたようだが、放蕩者としての側面を知るに及び、サドを長い獄中生活に追いやった。後にサドは「悪魔の手中に陥った」と書いている。資料によると、「小柄で若々しい魅力的な美人」で、「妖精のような精神と、天使のような才気と無邪気さにあふれ」ており、「狐のようなしたたかもの」だったという。恐ろしい個性の持ち主だったことは確かなようだ。


アンヌ・プロスペル・ド・ローネー・ド・モントルイユ(Anne-Prospere de Launay de Montreuil,〜1781)

サド侯爵夫人の妹。若きころより修道院に入る。教養があり、姉よりその容姿も優れていた。サドと深い恋愛関係に陥り、マルセイユ事件のとき、サドと一緒にイタリアまで逃亡する。モントルイユ夫人がサドを憎悪したのは、この結婚前の娘を傷物にされたことが最大の原因だったと考えられる。サドの投獄中に、天然痘で死去。


ロール・ヴィクトワル・アドリイヌ・ド・ロリス(Laure-Victoire-Adeline de Lauris,1741〜)

アヴィニョン地方の古い家柄の娘。若き日のサドの最も代表的な恋人と考えられている。サドは結婚まで考えていたが、彼女の親の反対により破談となる。その理由は、サドが彼女に病気をうつしたためという。


ボーヴォワサン(Beauvoisin、〜1784)

1765年よりサドとつきあっていた金持相手の有名な娼婦。恐ろしい魅力と高度な話術の才能を持っていた。小作りな美貌の持ち主だったが、上背がなく、ずんぐりしていたため、オペラ座の踊り子をやめ、上流階級相手の賭博場を開く。イカサマ賭博のため懲戒処分を受けたり、投獄されたこともある。サドと知りあった当時24歳。1765年の夏中、サドは彼女をラ・コストに伴い、妻として触れ回った。かなり高くつく女だったことは確かで、度重なる旅行やその他の貢ぎによって、サドは絶望的な負債をつくってしまう。結局サドは2年もの間彼女の網の中でもがき続けた揚げ句、捨てられる。後にサドは彼女のことを「シレーヌ(魔女)」と呼んだ。1784年に他界したとき、その莫大な財産売立はパリの社交界で話題になる。


コレット嬢(Mlle. Colette, 1746〜1766)

パリ、イタリア座の人気女優。1764年、サドと知り合った当時18歳。リニュレ侯爵という人物と暮らしていたが、一月25ルイでサドの愛人となる。しかしモントルイユ夫人が彼女の男出入りの激しさを暴露し、サドは嫉妬のあまり激怒した。その後も関係は続いたかどうかは不明。1766年、20歳そこそこの若さで死去。


マリー・ドロテ・ド・ルーセ(Marie-Dorothee de Rousset, 1744〜1784)

ラ・コストの城の家政婦で、サドと幼なじみでもある。1744年1月6日、ラ・コストの近くのサン=サテュルナン=ダプトに生まれる。サド夫妻にとってこの上ない親友であり、サド夫人と共にサドの釈放運動に務めたり、サド夫人の肖像画を描いて獄中のサドに送ったりもした。獄中のサドと文通をする。一時ゴーフリディにかわってラ・コストの財産管理も引き受けた。1779年頃から病気になり、1784年、結核で40歳で死去。サドは彼女の文才を高くかっていた。


ゴトン(Gothon)

ラ・コストに長く奉公していた女中。スイスのユグノー徒の娘。城では下男のカルトロンと恋仲にあった。大変てきぱきとしていて気持ちの良い働きぶりで、サド夫婦にも可愛がられていた。1781年2月ごろ、ラ・コスト村の青年グレゴワールと結婚するが、その年の10月末、産褥熱でルーセ嬢の腕に抱かれて死去。


ジャンヌ・テスタル

当時25歳前後。扇製造の女工だったが、女衒のラモーという女に売春の話しを持ちかけられ、承諾しサドに引き合わされる。サドの神をも恐れぬ冒涜的な放蕩ぶりに恐れをなし、サドを訴える。


ローズ・ケレル(Rose Keller)

ヴィクトワル広場でサドに拾われた乞食女。当時36歳の未亡人。馬車でアルクイユの別荘まで連れてこられ、そこで鞭打、監禁などの暴行を受ける。夜、窓から逃げ出し、サドを訴えた。その後、告訴を取り消す代りにまんまと2400リーヴルもの大金をせしめた。


マルグリット・コスト(Marguerite Coste)

マルセイユ事件の時にサドと関係した娼婦のひとり。当時19歳。サドに貰ったボンボンを全部食べ、腹痛をおこし、サドを訴える。


マリアンヌ・ラヴァンヌ(Marianne Laverne)

マルセイユ事件の時にサドと関係した4人の娼婦のひとり。当時18歳で、4人の中では最年少。サドに貰ったボンボンを食べ、腹痛をおこす。


アンヌ・サブロニエール(Anne Sablonniere)

通称ナノン。ラ・コストに勤める女中。1775年、サドの子と噂される女の子アンヌ・エリザベスを出産。サド侯爵夫人と喧嘩をし、脅迫的な捨て台詞を残して出ていきそうになったので、サド夫妻はスキャンダルを恐れて彼女を銀器盗難の罪を被せて、アルルの監獄に放り込んだ。1778年2月、釈放。


カトリーヌ・トリレ(Catherine Trillet)

通称ジュスティーヌ。1776年11月より、ラ・コストの女中として働く。サドと関係があったと思われる。1777年、城にどなり込んだ父親が、口論の末、サドに向かってピストルを2発撃った。弾は幸い外れたが、その後村中にサドの悪口をいいふらしてまわる。当人はサドの味方をし、城に留まることを望んだが、司直の手に渡された。当時22歳。


マリー・テュッサン

1775年の「少女スキャンダル」の時、ラ・コストに雇い入れられた少女の一人。スキャンダルをもみ消すため、カドルッスの修道院に入れられたが、数カ月後、脱走する。


ロゼット

1775年までラ・コストで働いていた女中で、サドと関係があった。1776年11月、モンペリエ旅行中のサドと再会し、よりを戻す。


アデライド

1776年11月、サドがモンペリエ旅行でロゼットと再会したとき、ロゼットに紹介されてラ・コストで働くことになった少女。


ドルヴィル嬢

1766年1月、サドが1カ月10ルイの報酬でつきあっていた、ヘッケという女の経営する妓楼に所属する娼婦。


ジャン・ニクー

リヨン生まれの娼婦。マルセイユ事件の直前、サドは彼女のもとに何度もかよっていた。事件の時、彼女もサドの別荘に来るように誘われたが、断っている。当時19歳。


マリー・コンスタンス・ルネル(Marie-Constance Renelle)

ケネー夫人。ルネと離婚後のサドが"la simple(純真な人)"と呼んで、その後の人生を供にした女性。元商人バルタザール・ケネーの妻であったが、夫は彼女と一人息子のシャルルを捨てて、アメリカに渡ってしまっていた。教養はなかったが、暖い心と素直な性格で一生サドに変わらぬ愛情を注ぎ続けた。


フルリュー夫人

サドが長い牢獄生活から釈放されたあと同棲する。元グルノーブル裁判所長の妻。サドがケネー夫人とつきあうようになり、別れる。


マドレーヌ・ルクレール(Madeleine Leclerc, 1796〜)

1796年12月19日生まれ。サド最後の恋人といわれている。サドと知りあったときわずか12歳。サドの 晩年の日記によると、1812年11月15日頃からサドのシェラントンの部屋に通い始め、彼女が16歳になった1813年5月15日頃から、サドと親密な関係になったと思われる。シェラントンに勤める雑役婦かなにかの娘だったようで、彼女も見習いとしてそこで働いていたらしい。彼女の存在によって一時期サドとケネー夫人との間が険悪になったこともあったが、時期におさまり、サドは将来自分が釈放されたらケネー夫人とマドレーヌと3人で新家庭を営むことを夢見ていた。1814年11月27日、マドレーヌは「来週の日曜日か月曜日にまた来る」と言って帰っていったが、土曜日の午後10時頃、サドが急死したため、それが最後の訪問となった。




TOP

サド侯爵と関係のある男性達


ジャック・フランソワ・アンブレ師(Abbe Jaques-Francois Amblet)

サドが10歳の頃の家庭教師。18年後、サドがアルクイユ事件をおこしたとき、法廷で「私は少年時代からのサド侯爵の善良な性格を知っているので、告訴されているような恐ろしい事件を彼がおこしたとは到底信じられない」と証言した。


カルトロン(Carteron)

通称La Jeunesse(青春)。サドお気に入りの下男。ラングル地方の出身で、妻子もいた。ラ・コストの城では小間使いのゴトンと恋愛関係があった。有能な使用人であったが、1785年4月、重い病気にかかり、口蓋を切開。5月20日頃死去。


アルマン・ラトゥール(Latour)

サドの下男。サドと関係があり、有名なマルセイユ事件の共犯者でもある。裁判ではサドと一緒に死刑判決を受けた。顔にあばたのある大男だったという。


ゴーフリディ(Gaufridy)

サド家に長く務めていた弁護士の息子。1774年よりサド家の財産管理人として勤める。最初はサド一家から信頼を集めていたが、持ち前の引っ込み思案で小心な性格から次第にモントルイユ夫人の言いなりになり、サドに疑われる。1800年、辞職。後に彼の子孫がサドの手紙を大量に保管しており、貴重な資料となる。


ルフェーブル

プロヴァンス地方の下層階級出身の青年で、最初はサド神父の下男を務めていたが、1771年から1772年までサドの秘書を務める。一時サドと男色関係にあったらしい。サドは投獄中、サド夫人が彼と浮気をしていると疑い嫉妬の余り、ルーセ嬢が描いた彼の肖像画をナイフで13個所もメッタ刺しにした。サド夫人はサドの疑いを晴らすために、修道院に入る。野心家で、フランス革命時に活躍し、後に「雄弁術研究」という著書も書いた。


クールミエ(Coulmier)

シェラントン精神病院の院長。拘留中のサドに芝居を上映させる機会を設けたり、何かと理解力があり良心的であった。内務大臣が、シェラントンでサドに自由に演劇活動をさせておくことに反対しても、サドを弁護し続けた。1814年、辞任する。


ニコラ・マッセ(Nicolas Masse)

「ジュスティーヌ」や「ジュリエット」等のサドの本を出版したが、1801年、猥褻本出版の門でサドと一緒に逮捕される。サドはその後13年の余生を監禁の身で送らねばならなかったのに対し、マッセはサドの著作を収めた倉庫の在りかを吐いて、翌日釈放される。つまり彼はサドを裏切ることによって、その後も普通に商売を続けることができた。


ジュセッペ・イベルティ

サドが1775年のイタリア旅行中に知りあった学者。サドは自らの文学活動の資料のため、彼に手紙でエロティシズムや拷問や犯罪学などのいかがわしい情報を手に入れようとした。しかし運悪くサドのイベルティ宛ての手紙が宗教裁判所の判事の手に落ち、そのためイベルティはサドに頼まれた仕事をしている最中に役人に踏み込まれ逮捕され、4カ月投獄される。後にサドはお詫びの気持ちか、その著書「悪徳の栄え」の中で「ローマで最も好ましく、最も機智に富み、最も愛すべき医学者」と、イベルティのことを讚えた。


J. J. ラモン(Ramon)

1814年、19歳でシェラントン精神病院の実習医学生に任命され、そこでサドに出会う。12月2日土曜の午後、サドの息子のドナチアン・クロード・アルマンが来て、前日から病床にふせっているサド侯爵の看病をして欲しいと頼まれる。午後10時頃、薬を飲ませて暫くすると、さっきまでぜいぜいと苦しげに息をしていたサドが静かになったのに驚いて、側に寄ってみると、既にサドは息絶えていたという。それから数年後、仕事でサドの墓を発掘し、サドの頭蓋骨を手に入れる。その後頭蓋骨は友人のスプルツハイムと言う骨相学者が借りたまま死亡してしまい、2度と彼の手には戻らなかった。53年後、有名なサン-モーリスの在院者に関する回想録の最初のページに、サド侯爵の思い出を胸に染み渡る文章で語っている。


ジョセフ・ヴィオロン

1773年、マルセイユ事件でサドがシャンベリーのミオラン要塞に投獄されていたとき、サドの脱獄を手伝った人物。商店のご用聞きを装って獄中のサドの連絡係を勤め、サドと脱出計画を練る。


デュラン神(Durand)

モンペリエのフランシスコ派修道士。1776年11月、サドにラ・コストで働く料理女を探すよう依頼され、カトリーヌ・トリレを紹介する。12月、サドの依頼で更に4人の召使を集める。その後、売春斡旋の廉で修道院を追放される。



TOP

国家権力者達


ルイ・マレー(Marais,〜1780)

パリ市警の警視。宮廷官房の依頼で1763年よりサドを追いかけ始め、その女性関係やスキャンダルの数々を正確に報告書にまとめ、ヴェルサイユに送る。何度もサドを逮捕したり、逃げられたりしている。


ガブリエル・ド・サルティーヌ(Gabriel de Sartine)

1759年から1774年までのフランスの警視総監。74年から80年までは海軍大臣。サドの迫害者であり、サドもその著書「閨房哲学」のなかで彼をののしっている。


ジャン・バプティスト・ル・ノワール(Jean-Baptiste le Noir)

1774年〜1775年、及び1776年〜1785年のフランスの警視総監。公営質屋の制度を作り、病院を改善し、拷問を廃止した人物として知られる。ヴァンセンヌにおけるサドと夫人の面会を許可したが、サドの極度の嫉妬を理由に再び禁止する。


ルージュモン(Rougemont)

サドが投獄されていたヴァンセンヌの城の典獄。


ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー(Bernard-Rene Launay,1740〜1789)

バスティーユ生まれ。1776年よりサドが投獄されたバスティーユの司令官となる。規則一点張りの形式主義者であった。サドは彼を妻への手紙の中で「小間使いのように囚人達を扱おうと思っている男」と描写している。バスティーユ襲撃の時に血迷って発砲し、なだれ込んだ民衆によってグレーヴ広場まで引きずりだされ、虐殺され首をはねられた。バスティーユに生まれ、バスティーユに生き、バスティーユに死した人生だった。


ルネ・ニコラ・ド・モープー(Rene-Nicolas de Maupeou)

パリ高等法院のトゥールネル刑事部の院長。同じ司法関係だったモントルイユ家と政敵だったこともあり、サドを憎悪し、アルクイユ事件やマルセイユ事件の裁判でも、サドを地獄に陥れようと裏で操作した。後に大法官となる。


モンタリヴェ(Montalivet)

フランスの内務大臣。シェラントン精神病院の院長に、サドの監禁を厳重にするように命令し、そこでのサドの演劇活動を禁止させた。更に、相変わらず印刷され密かに売られ続けている汚らわしい小説「ジュスティーヌ」や「ジュリエット」の銅版の隠し場所をサドが知っていると疑り、サドをどこか厳しい監獄に移してしまうぞといって強迫した。


ジョセフ・フーシェ(Josepf Fouche)

フランス治安大臣。シェラントン精神病院に拘留中のサドを、アン城砦に移そうとした。


ナポレオン1世(Napoleon I)

フランス皇帝。サドを拘留しておくことに賛成であった。1810年の枢密院の席で、サドの拘禁を持続し、外部との接触を一切断つように主張した。


ピノン議長

アルクイユ事件の時の、トゥールネル刑事部の議長。サドのアルクイユで事件が噂に昇ったとき、たまたま自分も同じ土地に別荘を構えて住んでいたため、激怒した。事件の審理には自ら裁判長を務める。


サルデニア王(Sardinia)

サルデニア王国の王。マルセイユ事件のとき、シャンベリーに逃亡していたサドを、モントルイユ夫人の依頼を受けて、逮捕した。



TOP

その他


オノレ・ガブリエル・ヴィクトール・リクエッティ・ミラボー伯爵(Honore-Gabriel Victor Riqueti, Comte de Mirabeau, 1749〜1791)

有名なフランスの革命政治家。1777〜1780年のあいだヴァンセンヌの城に投獄され、そこでサド(1777〜84年のあいだ同所に投獄)と喧嘩をする。後にジャコバン党の領袖として活躍し、フランス革命の中心人物として名を馳せる。アバタ面で、狂犬と恐れられ、実生活では放蕩者であったが、民衆に相当人気があった。1791年4月2日、謎の病気で死去。


ヴィレット夫人

詩人のヴィレット侯爵の妻で、パリの知的な有閑階級が集まるサロンを主宰する。サド侯爵夫人の境遇に同情し、自分の豪邸に住むように親切に勧めるが、サド夫人はサドの極度の嫉妬により断る羽目になる。


ラ・ブリソ

当時、パリで最も有名な娼家の女主人。1764年にマレーに「サドには絶対に女を取り持たないように」と勧告される。


ランベール夫人

アルクイユ事件の時、サドの城から逃げ出してきたローズ・ケレルが保護され、連れて行かれた公証人書記シャルル・ランベールの妻。ローズは彼女に自らの受難を語ったが、彼女は精神的ショックをうけ、最後まで聞くことが出来ずに退出。2日後に残りを聞いた。


リヴィエール(Riviere)

オペラ座の見習い女優。1767年10月16日のマレーの報告書によると、彼女はサドにアルクイユの別荘で同棲してくれと迫られ、はねつけている。


ロヴェール(Rovere)

ボンニュー選出代議士。1796年10月、サドがラ・コストの城とその土地を58,000リーヴルで売却した。


ラレ・ド・ソンジ男爵(the Baron de l'Alle)

マルセイユ事件でミラオン要塞に投獄されていたサドと獄中で知りあい、共に脱獄する。獄中でサドは彼と下男のラトゥールと夜更けまでトランプ賭博をして遊んだが、彼はイカサマの専門家だったため、サド達はいつも金を巻き上げられ、大喧嘩をしたこともあった。


レティフ・ド・ラ・ブルトンヌ(Retif de la Bretonne,1734〜1806)

サドと同時代の好色作家。中仏の裕福な農民の出。好色家で、結婚を二回、恋愛事件を50回ひきおこした。多作の作家で、200巻もの著書がある。処世術にたけ、売春の国家的制度化を政府に提案したりもした。彼とサドとラクロを3人合わせて18世紀フランス文学界の"恥の3人組"と呼ばれている。サドとは犬猿の仲で、文章の中でお互いを攻撃しあった。サドが「ジュスティーヌ」を出した7年後、レティフは対抗して「反ジュスティーヌ」という本を書いた。


ピエール・アムブロワーズ・フランソワ・コデルロス・ド・ラクロ(Pierre Anbroise Francois Choderlos de Laclos,1741〜1803)

サドと同時代の作家。かの有名な「危険な関係」の作者。彼とサドとレチフを3人合わせて18世紀フランス文学界の"恥の3人組"と呼ばれている。サドの小説のなかには、明らかにラクロに影響を受けていると思しき部分がある(現に彼の獄中での読書リストに「危険な関係」が入っている)が、彼は一生一度たりともラクロに言及しなかった。一説では、サドは同ジャンルの小説家として、ラクロに嫉妬をいだいていたので故意的に無視をしていたと言う意見がある。1794年に7カ月もの間、サドとラクロはピクピュス療養所に同時期に収容されていたことがあり、この期間に二人の作家が何かしらの接触を持ったことは想像に難くない。


ポールティエ(Paulthier)

1799年、週刊誌「法の友」という雑誌で「サドが死んだ」と吹き、「ジュスティーヌ」を「これほど理性や人間性を侮辱したものもない」と罵倒する。サドはその3週間後に同誌で大反論し、自分が「ジュスティーヌ」の作者であることも否定する。


デパーズ

ボルドー生まれ。5篇の「諷刺詩」「ミダス王への書簡」の著者。「第二の諷刺詩」と言う詩のなかで、「ジュスティーヌ」の作者であるサドを批判する。サドは彼を「ガロンヌ河から吐き出された産業騎士」と呼び、「愚劣な名誉毀損的駄文だ」といって、怒りを露にした。


ルラック・デュ・モーパ(Roulhac du Maupas)

クールミエが辞めた後、シェラントン精神病院の院長に就任する。


ロワイエ・コラール(Royer-Collard)

シェラントン精神病院の医師長。サドの存在を嫌がり、追い出そうと治安大臣に訴えた。


カレ(Carre)

サドがピック地区の病院管理会医員だったとき、パリ中の病院の視察を協力した一般市民。


デゾルモー(Desormeaux)

サドがピック地区の病院管理会医員だったとき、パリ中の病院の視察を協力した一般市民。


ルイ・ジョセフ・ド・ブルボン(Louis-Joseph de Bourbon,1736〜1818)

サドが生まれたパリのコンデ館の、コンデ公爵の子。サドの母はコンデ館で侍女を勤めていた関係で、サドは幼少の頃彼の遊び相手として、コンデ館で育てられた。「アリーヌとヴァルクール」のなかに見られる自伝的記述によると、サドは彼と子供の遊びから喧嘩になり、ついカッとなってさんざん撲りつけたという。のちに亡命軍の隊長となった。


ラウラ・ド・ノヴィス(Laure de Novis, 〜1348)

フランス語でロールと発音する。14世紀初頭、サドの祖先、ユーグ・ド・サドの妻。イタリアの詩人、ペトラルカが一目惚れし、その絶唱「カンツォニエレ」に歌われて、後世に不滅の名を残す。1348年4月6日、ペストにより死去。ヴァンセンヌの獄で苦しむサドの枕元に現れ、サドを慰めたりした。




TOP

サド侯爵の死後、関った人々


ギョーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire.1880〜1918)

フランス、シュールレアリズムの先駆者で、後期象徴派詩人、小説家。有名な詩集「アルコール」の作者。「愛の巨匠たち」叢書の一巻をサドにあてて、その中で「かつて存在した最も自由な精神」と激賞し、「19世紀には全くその価値を認められなかったこの人物は、20世紀を支配することになるだろう。」と予言した。モーリス・エーヌに出会い、「サドの文学を復興させる為に供に努力をしよう」と話しあう。モーリス・エーヌ、ジルベール・レリー、澁澤龍彦氏と並んで、サドマニアにとって英雄とされる。彼らの努力がなかったら、我々が今、容易にサドの文学をひもとき、サドの研究に勤しむことはままならなかったであろう。


モーリス・エーヌ(Maurice Heine,〜1940)

今世紀のサド研究の始祖。あるときアポリネールと出会い、「サドの文学を復興させる為に供に努力をしよう」と話しあったが、アポリネールが急死したため、その大事業を一人で受け継ぐ。一冊の著書も書かなかったが、その一生を忍耐強い情熱でサド研究に費やし、150年間誤解と偏見の闇に包まれていたサドを20世紀において復活させる。友人のジョルジュ・バタイユの言葉を引用すると、彼は「サド研究の為に財産を費やし、たくさんの飼い猫を養うために食うもの食わずに窮死した」という。かなり型破りな人物だったらしく、ある会議の真っ最中に、ピストルを取り出してあてすっぽに引き金を引いて、自らの妻の腕にかすり傷を負わせたと言う有名な話もある。低血圧で貧弱な身体を酷使してフランス中の町や村を尋ね周りサドを追いかけ、その偉大な事業を後輩のジルベール・レリーに受け継いで、サド生誕200年にあたる1940年5月、56歳で死亡した。アポリネール、ジルベール・レリー、澁澤龍彦氏と並んで、サドマニアにとって英雄とされる。彼らの努力がなかったら、我々が今、容易にサドの文学をひもとき、サドの研究に勤しむことはままならなかったに違いない。


ジルベール・レリー(Gilbert Lely)

1933年、医学雑誌「イポクラト」にサドの「マルセイユ事件」に関する論文を載せ、それをきっかけにモーリス・エーヌと知りあい、彼のサド研究を引き継ぐ。自称「事実のフェテシスト」と呼ぶほどの執拗さで、サド侯爵の74年の人生を一日一日と克明に追ったサド伝が有名。また、サドの新たな文学的才能を世に知らしめた179通にも及ぶサドの手紙を収録した書簡集の刊行も忘れてはならない。アポリネール、モーリス・エーヌ、澁澤龍彦氏と並んで、サドマニアにとって英雄とされる。彼らの努力がなかったら、我々が今、容易にサドの文学をひもとき、サドの研究に勤しむことはままならなかった。


澁澤龍彦(1928〜1987)

東京に生まれる。東京大学仏文科卒業。サド侯爵の翻訳、評論を数多く発表し、日本にサドを紹介する。59年に刊行した「悪徳の栄え」続編の翻訳が告訴され、サド裁判の被告となる。アポリネール、モーリス・エーヌ、ジルベール・レリーと並んで、サドマニアにとって英雄とされる。彼らの努力がなかったら、我々が今日本で、容易にサドの文学をひもとき、サドの研究に勤しむことはままならなかったといえる。



このページの一番上に行く

HOME.gifgoback.gif