サド初めての大作である。
この作品の前に短編「司祭と臨終の男との対話」や詩「真実」などの小品があるが、実質上これがサドの最初の長編作品。
サドが生涯をかけて追及し続けた人間の精神の開放、自由へのあくなき追及は、すべてここから始まった。
スタイル的にはボカッチオの「デカメロン」などの影響が見受けられるものの、その内容の恐ろしいまでの異常さ奇抜さは他に類を見ない。その序章に「この世が始まって以来もっとも淫らな物語」と記されているように、サド自信もこの作品が極めて前例のない、オリジナルなものであることをよく認識していた。
サドはこの大作の原稿を保護するために、尋常ならざる慎重ぶりでその保存法に勤めた。この特異な作風を鑑みなくても、サドが当時投獄されていたバスティーユの中では、サドの原稿は常に押収の危険性に晒されていたからである。
1785年10月22日、サドは作品が完成しない内から、その複製の作成を開始した。幅12センチ長さ12メートルもの長い紙の表裏に、蟻のような文字でびっしりと浄書を始め、作業は毎晩夜7時から10時まで37日間かかり、ようやく11月28日に完成した(写真右)。
しかしサドの努力も空しく、この原稿はフランス革命勃発のきっかけとなったバスティーユ襲撃のとばっちりで紛失してしまうことになる。その後原稿は二度とサドのもとには戻らず、サドは原稿は焼かれてしまったものと思い、「血の涙を流して」悔しがったと、後に知人のゴーフリディ宛の手紙に書いている。
ところがこの原稿はちゃんと残っており、バスティーユのサドの部屋からアルヌー・ド・サン=マクシマンという者によって発見され、ヴィルヌーヴ=トラン家の所蔵として三代の間門外不出の保護を受けていた。それが今世紀の始め、ドイツの蔵書家に売られたのをきっかけに、ドイツの精神科医イワン・ブロッホが出版に向けて働きかけ、1904年、遂に100年以上の沈黙を破り、この作品が世に出ることになったのである。この原稿が辿った数奇な運命を、驚異と云わずして何と云おう。
この作品の持つ異常なまでの独創的なスタイルは、後のどのサドの代表作と比べても、抜きんでている。「ジュスティーヌ」や「ジュリエット」がある程度ドラマ性・ストーリー性が介入し、小説として纏まりのある完成度を伴っている点を考えてみても、この「ソドム」の異常性欲のカタログ的な味わいは、サド作品の範疇においても類を見ないものと云ってよい。恐らくサド自信にとっても、二度と書きえない種類の作品だったのではなかろうか。
内容はいたってシンプルで、地位も名誉も莫大な富もある放蕩者たち、ブランジ公爵、司教、キュルバル法院長、徴税官デュルセの4人が、「黒い森」という隔絶の地に建てられた城館で、120日間の放蕩と殺戮に彩られた大宴会を繰り広げる。そのスタイルは異常性欲、特にスカトロジーとサディズムのバリエーションがカタログ的に羅列され、普通の小説のような起承転結らしきものは全く見受けられない。
この物語は完成を待たずしてサドの手元から失われてしまったため、四章のうちストーリーが肉付けされ広がってゆくのは序章と一章だけで、あとは異常性欲の個条書きのノートが延々と続く。不幸中の幸いといおうか、そのことが返ってこの作品の悪徳と異常性欲の一覧表のようなスタイルの冷酷さを引き立たせている。
「悪徳の栄え」がサド文学の頂点であるならば、この「ソドムの120日」はサド文学の原点として、やはり最も重要な位置を占める作品のひとつである。
(ザッピー浅野)
Les 120 journees de Sodome(仏語のオンライン・テキスト)
The 120 Days Of Sodom(英語のオンライン・テキスト)
"個人的には「ソドム120日」が好きです。" ・・・Koichi Nagai