旧サドを語る

1996年11月〜1997年3月


NAME:k_chan
TITLE:ぶるとん
DATE:Mon, 27 Jan 1997
E-MAIL:ko_ta_ro@in.aix.or.jp

サドの文章は非常にわかりやすいのでびっくりしました。
澁澤さんの訳がいいのかもしれませんが・・・
それにしても、フロイトの言うように人間は欲望を求める動物なのだと実感します。
なぜなら私自身そうなのですが、自分ではなかなか気が付かないけれども、 あるいは表面に出ないように無意識に隠してしまうけれども、 何かの考えを巡らせる時、常!に感情の奥底にクツクツと煮えたぎる 粘液から蒸気のように吹きだす肉欲を感じるからです。 そして宗教とか常識とかに矯正された現実は虚像であって、 本来の姿がサドの作品には溢れているのだという考えに至ります。 なるべく姿は、無秩序のなかで人間は悪や天使、性や快感、痛みなどが混沌とするなかで、 人間は必然的に衰えていくものだと、そんな気がします。



"一般に、サドの小説は退屈だといわれている。わたしは、このサドの退屈の魅力(?)なるものを出したいと思って、(サドの)ほぼ忠実な訳出の筆を進めてみた。"

・・・澁澤龍彦(新ジュスティーヌのあとがきより)




NAME:IKEDA Tsukihiro
TITLE:C'est SADE
DATE: Fri, 22 Nov 1996

サドの小説が退屈だなんてとんでもない!
悪徳の栄えの登場人物のの一人であるドルマンセ の長い講釈にあくびをしているようでは、ま た その講釈の退屈さが良いなとど言っているようでは、 サドマニアとは言えないのではないで しょうか? 特に『閨房の哲学』は各人が非常に饒舌で講釈 も長い、それがなんとももいえぬ緊 張感をもって 受けいれる感情が惹起してこそ、サドに接する資格 を有するのではないか。


去年、池田氏から上記のメールが届いたとき、私は即座にその内容を、冒頭の澁澤龍彦氏の言葉に共鳴の意見を出していたLETTERSのコーナーの某メールに対する意見と取ってしまい、まず私の意見として、サドの文章の退屈さというのは一般常識論で言う"退屈"とは違った、サドの長編における哲学表現の特性とも言うべき"質より量"的、あるいは"量が質"的なスタイルに起因する比喩的な意味での"退屈の魅力"ではなかろうかと述べた後、そのメールからリンクする形をとって掲載したのだが、この事実に関して同池田氏から下記のようなメールが届いた。


NAME:IKEDA Tsukihiro
TITLE:弁明ou新年の挨拶
DATE: Mon, 06 Jan 1997
E-MAIL:arbiunx@osaka.xaxon-net.or.jp

謹賀新年 今年も貴殿のページを楽しみにしております。
さて、年末にSADEへアクセスして拝見していると、私の意見が誰かのE-Mailへの反論のかたちでリンクされていたのに驚きました。と言うのも、私はその人の意見を狙い撃ちしたわけでもなく、ましてやその意見に唾棄しようとしたのではないからです。もちろん私が発言している「サドを読む資格」というものは存在為えません。思想に「資格」などといった戯けたものは不必要なものだと私自身も理解しております。
ただ私は、軽々と澁澤氏の書き連ねた言葉をそのまま鵜呑みにすることが、これから、未来に向かってのサドを考えていくうえで危険だと判断したからです。
確かに澁澤氏はわれわれに一級のテクストを提供してはくれますが、その為に、それが故にSADEを観る視野が狭窄せしめられている、といったことが生じていると考えられるからです。これは私自身の問題と見做す傾向が強いかもしれません。そういった意味に於いて、この手紙を書いている次第であります。私は決して、他者の思想を蹂躙するという行為に対して嬉々とする人間ではありません。
追伸-小平氏の小論『サドを読む意義について』の第三段落に感服しました。 イエズス会に属さず、ジャンセニストとして生きたパスカルと人間の醜さに接近したサド。供に我と他者、総じて人間の悲惨とは何たるかを探究した両者。その両者の接点。興味が湧いてきます。小平氏の論文の絶えない掲載をのぞみます。


池田氏にはこの場を借りてお詫び申し上げるとともに、今後も当ページへの主体性にあふれた御意見を心から期待したいと思う。
また、このメールの中にもうひとつ新たな問題提起ともいえるべき貴重な意見がが認められる。
"ただ私は、軽々と澁澤氏の書き連ねた言葉をそのまま鵜呑みにすることが、これから、未来に向かってのサドを考えていくうえで危険だと判断したからです。確かに澁澤氏はわれわれに一級のテクストを提供してはくれますが、その為に、それが故にSADEを観る視野が狭窄せしめられている、といったことが生じていると考えられるからです。"
これは、「サドマニア」というホームページの存在意義にさえも関ってくる問題と言えよう。水声社から出ている「ガンジュ侯爵夫人」の橋本到氏の解説にも、澁澤氏が訳したサド文学は殆どがサドの生前には匿名でしか出版されなかったような系列のものばかりで、「アリーヌとヴァルクール」の様な公の作家としての作品の日本で紹介が遅れてしまったことをあげている。サド文学の紹介による澁澤氏の偉大さは揺るぎのないものであるにしても、逆にそれ故に日本でのサド研究はかなり澁澤氏の主観に染まってしまっている部分があるのではなかろうか。
現在では、サド研究にはほんの10年前には考えられなかったような、今までのエロティシズムや無神論の概念から離れた新たな視点が多々生まれているように思う。「サドマニア」の本質的なテーマが、〜はじめに/PREFACE〜にもあるように、"サド文学の現代における意義を探求する"ということであるとすれば、池田氏の意見にあるような澁澤氏のサド研究から或程度距離を置く姿勢を取ることも、当ページが目指す"21世紀に向けてのサド研究の再構築"には必要性があるのではないだろうか。
また、「サドマニア」の現代のサド像を探求していく構想に対して先日、次の様な意見も送られてきた。


NAME: T.S.
DATE:Sun, 5 Jan 1997

「サドマニア」の構想は確かに価値あるものだと思いますが、大変難しい企画で、その目標が達成されるには努力だけではなく、チャンスも必要であろうと思います。すでにご存知のようにサドに関してはすでに多数の研究があり、「今までにない新しいサド像」を発掘するには新たな視点が必要になるでしょう。微に入り細をうがったテキスト・クリティックとか、新たな資料の発見とかいう要素も必要でしょうが、今のところ、仏文学者や仏文系哲学者がインターネット・ユーザーになっていて、「サドマニア」の企画に参加する確立は少ないと思います。
一般の読者からの反応は大部分の場合感覚的なもので、「好き-嫌い」か「いい-わるい」、「面白い-面白くない」、また多分変わったものでも「サドを読むと気持ちがいい」とか「頭がすっきりする」とか「おいしい」とかいうレベルに留まっているのが普通ではないかと思います。これを更に押し進めて新たなサド像にまで発展させていくには多大の努力が必要になると思います。
新たな視点でサドを読むことに関しては、一神教的な抑圧の少ない日本は有望な場所だと思いますが、日本人は既存のサド文学批評のコンテキスト、「神-無神論」、「道徳-不道徳」、「美徳-悪徳」、「廉潔-放蕩」等々といった二元論を無視した独創的発想に弱い国民でもあります。
何か批判じみたものになってしまいましたが、私の言いたかったのは「サドマニア」の企画を批判することではなく、こうした状況において「サドマニア」という場所ができたこと自体、歴史的に意義のあるものと考えているからです。今後のご健闘を祈ります。


tomizawaさんと言う方から、「サド侯爵を探せ!!」のコーナーに該当する投稿をいただき、それに則してこのページの論議の流れにそった哲学的意見を提供していただきましたので、以下に掲載いたします。その前に、まずこちらこちらをお読み下さい。


NAME:mayumi tomizawa
TITLE:サドに関する著作を2、3。
DATE: Fri, 7 Mar 1997

 何故サドに関する数ある著作の中から上記二冊を選んだかと言うと、サドへの理解、更にはSM・ボンデージへの理解があまりに偏っていると思うからです。皆様が否定されるように、二元論的理解はあまりに古い。まあキリスト教の影響の少ない日本人にとって、二元論を超越しようとした(したとは申しません)サドの本当の偉大さは実感しがたく、それゆえ二元論的理解をかつてし得たかどうかも怪しいものですが。
 「人間の奥底に眠る暗い欲望」から一歩進んで「欲望の政治学」「性の政治学」へ。「退屈な描写の表現上の効果」から「書く行為それ事態」へ。サドやSMがもつ多様な側面を考える方が、サドマニアの目的にも適うのではないでしょうか。


この度、大変光栄なことに、上記の文章でも触れているサドの「ガンジュ侯爵夫人」の訳出をしておられる橋本到氏から直々にメールを戴きました。以下に記載します。


NAME:橋本到
TITLE:ホームページ拝見しました
DATE:Mon, 31 Mar 1997

はじめまして、橋本到と言います。
 ちょっとまえから、ときどきホームページを拝見しています。
インターネット上で、文学・哲学系の人たちとは違ったフィールドで色々な人と議論を重ねていくのは、大変なことだと思いますが、頑張ってください。
 澁澤龍彦のサド理解についての議論がありましたね。これについては、『澁澤龍彦翻訳全集』(河出書房新社)の解題で、松山俊太郎先生が総括をされていますから、そちらの成果を紹介するのもいいかもしれません。ご存じだったら聞き流してください。
 私も一応サドの私感などを、少々述べさせてもらいます。
 サドの小説は、十九世紀以降の小説のように、登場人物にリアリティーがあるわけでなく、登場人物はしかじかの思想を担った符号のようなものとして物語のなかで機能していて、その意味では、童話やファンタジーの一変種のようになっています。童話なんかと同じで、ある人物は極端に悪人だったり、思いやりがあったり、勇敢だったりしますよね。でも、これだけじゃなくて、この一見平板な対立の図式のうえに、サドの他者に対する畏怖と、他者の背後にある当時のキリスト教道徳を中核とする常識や昼間の論理に対する否定の論理を、変数として加わえていく。これが、サドの物語のほとんどすべてを覆っている特徴じゃないかと思います。つまり、この後者の方の他者とのあいだの超えがたい断絶がサドのメインテーマというのが、私の見方です。悪人と善人はもちろん、口説く者、口説かれる者のあいだ、さらには、仲が良かった夫婦でさえも、どんなに言葉を連ねても、理解とか共感に到達しない、その超えがたい断絶をサドは常に語りかけているようです。『ジュスティーヌ』や『悪徳の栄え』のような自分の欲望の障害になる他者の全くいない、現実にはあり得ない空間や、『閨房哲学』の教育の場面のように空想的な了解が成立する空間は、サドにとってトラウマとなっている他者との断絶を裏返して表現したものでしょう。
 サドは常に自分が、社会から受け入れられない部外者と感じていたと思います。ふつうなら、犯罪者になったりドロップアウトかしてしまう危険が高いですね。ところが、サドはそうならず、他者の背後、他者が頭のなかに抱えている常識にまで喧嘩を売って、当時の膨大な思想的言説を巧みにパロディー化し、さらに、独自の反復構造とも偏執狂的とも言える立体的な物語の組立によって、壮大なポエジーを作り上げてしまう。やはり強靭な精神の持ち主というか、常人離れしています。
 ますますのご活躍を



NAME: Toshiro Suzuki
DATE:Tue, 26 Nov 1996

その何者をも恐れぬ自由な創造力と態度には、ひたすら敬服する。
世の中には様々な文学があり、表現手法があるが、ただ思いつきと欲望のままに書き殴ったサドの作品を受け入れてこそ 初めて文学の意味が読み解けるのではないか。


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