サドを読む意義について。

小平友信

 今日のわれわれがサドを読む意義はどういうところにあるかということがこの小論の主題である。まずは、サドの小説は何らかのモラルを教えるものであるかという問題を提出する。サドが小説の中で描いているモラルは、今日のわれわれに対して反発を呼び起こさせるような反道徳的、反社会的モラルである。このモラルはわれわれにとって受け入れられぬものであろう。しかしそれでいて今日までサドの小説が読まれ続けるのはなぜか。恐らく読者は、このモラルに心の底において同感ないし共感しているのであろう。
 モラルとは、日々の生活の思考、行為の規範であるとすれば、われわれ自身、サドの示したモラルに根底では支配されているのではないだろうか。人間は真実には、常に人々に認められているようなモラルにしたがっているわけではないことが多いのであろう。ラ・ロシュフーコーは、「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」と述べている。人間を支配しているモラルは、かえってサドの示したモラルに近いのかもしれないのである。サドは彼の示すモラルを広めようとしているのではなく、人間を現実に支配しているモラルを示しているのである。こういうモラルが自分を支配しているのを認めるのを恐れて、サドに反道徳者というレッテルを貼って、自分の見えないところに排除してしまうのである。フランス文学史家がサド、ラクロ、レティフ・ド・ラ・ブルトンヌを「恥の三人組」と称したり、ラ・ロシュフーコーを単にペシミストと評価してしまうのはこのような理由によるのではないだろうか。
 サドの示す人間の真実のモラルを知ることによって自分自身を知り、自分自身の悲惨、醜さを知るようになる。そして自分自身の中に光のないことを知る。その暗闇の中に光を探求することが信仰への道であると私は思う。パスカルは、こういう道を通って神なき人間の悲惨を知り、そこから出発することによって神と共にある人間の至福へと至ったのではないだろうか。
 サドを読むことは、自分自身の自己認識への手掛かりとなることである。それをサドが意識したわけではないであろう。ただサドは自らの内にある真実を誠実に書いてゆくことによって、それを可能にしたのである。そういった意味において、自らのうちを誠実に描くサドと、単なる快楽のためにストーリーをつくってゆく大衆文学作家との間には、大きな深淵のあることを認めることができる。
 このようにサドを読むことが絶対的なものではないであろう。サドの作ったストーリーから引き出したひとつの主観的相対的見解であるかも知れない。サドを単に快楽のための小説と読むことも可能であろう。しかし、真の芸術は人間を幸福にするものでなければならない。何らかの仕方によって芸術は人間を幸福にするであろう。サドを芸術、文学作品として読むときに、これまで述べてきた読み方はひとつの見解として成り立つであろう。
 私はサドを読むことによって、何らかの人間的成長をすることができたと思う。これからの私の研究においても、またいつかサドの書を開き、いろいろなことを考えてゆきたいと思っている。(哲学研究家)


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