サドを語る・バックナンバー5
1997年11月1日〜1998年4月5日
[No:102][丸尾] [97/11/1 0:5:50]
- どうも、丸尾です。
一つ質問です。(サドとは関係ありませんが)
聖書は多くの矛盾を含んでいるといいます。その矛盾を許してもいいのでしょうか。また、聖書でなくとも、さまざまなところで矛盾が見いだされます。それらの矛盾を認めてもいいものなのでしょうか。それとも、論理的に、矛盾点のないものの方がいいのでしょうか。
漠然とした質問ですが、多くの方の返答を待っています。 丸尾
[No:103][ザッピー] [97/11/9 13:23:12] [Comment Number-102] [http://www.jah.ne.jp/~piza]
- 「矛盾」とは、許さぬものでも認めるものでもないと思います。この世はすべてが矛盾で構成されています。だからこそ人は考え、矛盾を克服し精神を昇華させようと努力する。いわば「矛盾」とは、向上への原動力と言えるのではないでしょうか。サドも多くの矛盾に直面し、それを原動力として多大な精神文化の財産を後世に残してくれました。
その矛盾のひとつが聖書・キリスト教です。
聖書の矛盾は色々な角度からあると思いますが、聖書を全て熟読したわけではない自分にここで偉そうなことを言う権利はありません。ただ矛盾点と言えるべきものは聖書そのものよりも、宗教に携わり聖書を解釈する人々の方に宿っているような気がします。サドが告発したのもまさに自然の摂理を無視し、宗教を普遍的なモラル(法律)として自分を苦しめたフランス社会であり、聖書の矛盾点はその告発材料として引用していただけなのではないでしょうか。
一連のSMに関する論議ですが、自分がno.85の書き込みで述べたとおり、やはりまだ「観念的なサディズム・マゾヒズム」と「単なるSMプレイ」を混同しているような気がします。
アスラの意見は正論ではありますが、多くのものをひっくるめすぎているような気がします。遅ればせながら自分なりの考えを含め、若干補足させていただきます。
自分の意見では、SMとは人類の文化の象徴のひとつであると思います。自虐も加虐も人間にとって本来マイナスの感情ですが、マイナスの感情とはもともと危険信号の為に人間に備わっているもの。例えば「怖い」や「痛い」という感情によって、人間は自らを危害からプロテクトする。これらの感情に実用性を排除することによって、人間はそれらを娯楽に転化することを覚えたのです。これは以前アスラがチャットで主張していたSFの理論と同じです。例えば「怖い」という感情を玩ぶ「ホラー映画」、本来腐っているものや傷んでいるものを知らせる危険信号だった「苦い」「酸っぱい」も、人間は味覚に変えてしまいました。また危険の一歩手前で踏みとどまることによってスリルを味わったり、喜劇などで人間の尊厳を挑発するような行為に笑ったりすることなども、この文化に属します。そしてもちろん、SMもこの系統の文化に相当するでしょう。
動物が自慰行為をすることに不思議は感じません。何故ならこれらはストレートなプラスの感情だからです。自慰行為をすることは出来ても、例えばそれを我慢して自らを自虐的境地に貶めそれを快楽に変換させる。当然そんなことは獣には不可能です。それが人間と獣との違いであり、SMが人類文化の象徴のひとつであると思う所以です。
皆様は如何思われるでしょうか。
[No:107][丸尾] [97/11/26 22:21:2]
- どうも、丸尾です。論作文に関して書きます。
まずは論作文を書いたのは、マルキド・サドやサドの作品群がSMというものの中に組み込まれてしまっている嫌悪感からです。
ですから、論作文はサド側から書かれています。
マゾの定義に関してですが、皆さまのいう通り、良くないと思っています。マゾヒズムを中心において、マゾに関してはなそうとしているときにはまったく正確ではないと。
しかし、SMに関して、一般的に使われている状態での「SM」という言葉に関してはあの程度の定義付けであっている、と私は思っています。世間一般ではあの程度の認識なのではないのでしょうか。
SMという言葉に関しては、一般的なもの、一般的な使われ方を問題としています。ですから、ザッピーさんのいうところの「真のSM」というものは考えてはいません。
今一つ、ザッピーさんの言わんとするところの「SM」というものがわかりません。しかし、ザッピーさんの使われ方が「SM」という言葉の中に、一般的にあるのか、というと、ないと思います。
マゾヒズムに関してですが、定義に関してなど他のかたがたにお任せしますので、皆さん、がんばってください。
あと、ザッピーさんのSMに関しても更なる続きの書き込みが読みたいと思います。
と、短い書き込みです。その他何か私に言いたいことなどある方、メールをくだされば、と思います。 丸尾
[No:111][Shinya] [97/12/31 2:17:33] [Comment Number-107]
- 私は、シュルレアリスム以降のサド観、又ジルベールレリー等のサド研究を通過した、もう少々学術的な論争を展開したい。サディズム、マゾヒズムに関する定義等はクラフトエビング博士の簡明な定義付けで十分ではなかろうか、そもそもかような議論は聖サド公爵の精神とは、いかなる関係も無い物である。アンドレブルトンはサド公爵に対していみじくもこう言っている。「この自由、その為に火そのものが、人間と化したのだ。」
精神的な、議論を期待したいものである。
[No:112][ザッピー] [98/1/12 2:18:22] [Comment Number-111] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
- Shinyaさんの言うことは尤もですね。
基本的にSMに関して自分が言いたいことは、「単なるSMプレイと観念的なサディズム・マゾヒズムを混同するな」という事のみです。サドの精神を語りあう上で、サドマゾの見地は必要か否かといえば、どちらかといえば後者だと思います。
しかし、もちろん単なるSMプレイでは一般的な趣味・趣向の話しにしかなりませんが、観念的なサディズム・マゾヒズムの視点から考えれば、或いは文学・哲学的な議論に適用することも可能だと思います。それは単なるクラフトエビングの心理学的なサディズム・マゾヒズムの定義だけに留まるものではありません。
No:103の発言は、アスラの意見に自分の考えを含めて若干補足する意図で言ったことで、つまりサディズム・マゾヒズムといったものは、人間の文化の中でもとりわけこういった部分に属する感情であるということを述べたものです。少々誤解を与えてしまいましたが、上記の「単なるSMプレイと観念的なサディズム・マゾヒズムを混同するな」という基本的な自分の主張とは切り離して考えてください。(しかし、観念的なSMの議論を進めていくと繋がるのですが、ややこしくなるのでまたの機会に述べたいと思います。)
Shinyaさんのおっしゃる「シュルレアリスム以降の、ジルベールレリー等のサド観を通過した学術的な論争」ですが、これは言葉を変えると澁澤氏以前のサド観という事ではないでしょうか。このホームページのテーマがそういった思想から一歩押し進んだ、澁澤氏のサド観を離れた新たなるサド研究の再構築だとすれば、それには或いは原点であるサディズム・マゾヒズムという視点に立ち返って考察してみる事もひとつのアプローチになるのではないか。あくまでも可能性として考え得る観点ではあるでしょう。しかしサドマゾの視点といっても、その最も基本的な部分で立ち往生してしまっていたというのは確かに問題であったかもしれません。
Shinyaさんが引用されたブルトンの言葉が象徴するように、サド侯爵は獄中にありながらその強固な意志を変えることなく、破壊的な文学活動を通じて新たな人間性の本質を追及してきた面が、偉大な功績として大きく取り上げられてきました。
しかし近年では、モーリス・ルヴェの「サド伝」が出版されたあたりから、彼の人間的欠陥や弱さ、それらに基づく彼の行動の様々な矛盾点が、色々論じられてきています。それと同時に、サドを悲劇のヒーローとして賛美してきた今までのサド研究のあり方に対する批判も高まってきています。
ブルトンやアポリネールに代表されるシュールレアリスト達や、ジルベール・レリー、澁澤龍彦氏等のような研究家達がサド文学の普及に貢献した功績は否定できませんが、彼等の見方にサドを悲劇の英雄として美化し、サドの真の人間像を歪めてきた可能性も否定できません。
現在は澁澤氏やシュールレアリスト達が築き上げてきた"聖侯爵"的なイメージを離れ、新たなサドの解釈を追及してゆこうという思想が強くなってきています。
最近になってサドの「恋の罪」や「ガンジュ侯爵夫人」のようなタイプの作品が続々出版され、評価を受けているのは、その流れからでしょう。
私個人の意見としては、やはり「ジュスティーヌ」「ジュリエット」「ソドム120日」等のタイプの作品を抜きにして如何なるサドを語る意義があるのかという疑問はあるのですが、サドを美化しすぎた澁澤氏以前のサド研究の観点に関してはやはり大きく修正すべきものがあるとは思っています。
皆さんの御意見をお聞かせ下さい。
[No:113][腐った林檎の逆襲] [98/1/25 2:9:25] [http://工事中]
- 大学のレポートの資料集めのためにここにきました。
すごいですね、何だか。みなさんすごい知識の数々。
レポートを忘れ見入ってしまいました。レポートの課題
の情報はなかったけれど、ここをみつけて何だか得した気分。
ありがとうございます。レポートは大丈夫か?
ただひとつだけ言わせてください。
過去の掲示板とかいろいろ眺めてきましたが、
もう少し初心者にも分かりやすい言葉をお願いします。
よくわからない言葉がでてきて頭が痛いです。
[No:115][Shinya] [98/1/29 0:6:43]
- ザッピーさんへ、
私の一文(107)は、若い友人が見せてくれた「SADIQUE DISCUSSIONS」を暼見した後、彼に口述で入力を依頼したものです。よって、皆さんの文章を熟読玩味したわけではなく、的外れな意見だったかもしれません。改めて拙文を見直してみると、シユルレアリスム以降のサド観云々…という言説など、甚だ曖昧なものだったように思えます。
ザッピーさんという方より返信をいただいたとのこと。手前滕手な文章を挿入してしまった以上、私なりの返信を述べるのが礼儀でありましょう。
まず、「単なるSMプレイと観念的サディズムとの混合」について。目が見えるならば、二語の違いは明白であり、それとも、字も読めぬ頭の悪い輩がいらっしゃるのですか? 後者を字義通り解釈するならば、「意識的内容的なサディズム」とパラフレーズすることもできますが、まあ、言葉の問題は論じません。A.P.deマンディアルグが喝破したような、カトリシズムというモメントが介在するサディズム。それに類した形而上的情念を孕んだサディズムを、私は(恐らくザッピーさんも)”観念的”と解します。対する単なるSMプレイについてはいわずもがな。昨今、我が国においても市民権を得たかに思われるこの児戯は、通常の性交渉に慊い者が、単に塩こしょうを加えたまでのことで。もとより一神教的風土の存在せぬ日本の精神的器では、厳格なサディズムは感得しえぬような気もします。− 西洋にあっては、戦闘的無神論者でさえも幼き日には聖体拝領を受けているという、本人にとって真に歯がゆき事実!− 巷のSMクラブにしたところで、当世風の「女王様」にメタフィジカルな相剋なぞ有りうべきはずもなく。あるのは、軽度の嗜虐趣味に過ぎぬでしょう。第一、縄ならばまだしも、日本人と鞭との組み合わせに到ると笑止千万。そうではありませんか?要するに、ザッピーさんの主張は、まっとうすぎるほどまっとうであります。
以下、私の弁解− 「学術的論争」「精神的議論」などと大仰に言いましたが、私はただ、皆さんの意見交換が、サドの名を冠した品位のない戯れ事に堕すのを危但したまでであります。(すべてとは申しませんが、冗長な文が多々見受けられましたので…)
ところで、私にはザッピーさんのいう「原点であるサディズム・マゾヒズムという視点」の意味が捉えがたく思われます。サド(研究)の原点がサディズム・マゾヒズムだというのですか? それとも、この議論の原点が? 「あくまでも可能性として考え得る観点」などと用心深く付け足しておられるけれども、これは単なる言葉の遊びにすぎないでしょう。
「生活は、書かれたものとは別なものなのだ。」 有名な「ナジャ」の一文です(望むらくは、含蓄のある言葉を正しく看取せられたい)。ザッピーさんの言う通り「サドの人間的欠陥や弱さ」は、彼の書簡集を気ままに繙くだけでも即座に了解されることですが、私達はサドの作品によって、「書く」という行為の根限的意味を喚起すべきではないでしょうか。君子諸氏、まずはサドのテクストそのものと何度でも対峙されんことを。サドの精神を汲む泉があるとすれば、そこ以外にはありえないのですから…(その労をとる前には、すべて空言だとは思われませんか?)。その時人はまた、簡潔明解な美文家としてのサドをも再発見できるはずです。細かな人物像的詮索は、学者連中の仕事にまかせればよろしい。− 私はエーヌやブランショの精彩ある論文の価値を大いに賞讃さるものですが、なおかつ批評を峻拒する精神というものを感ぜずにはいられません。ザッピーさんの挙げているルヴェの「サド伝」や近年の研究にはあいにく目を通しておりませんが、これから侯爵を追い廻す優秀な探偵さんはどうか道を踏み外すことなきよう… サドに関しては軽はずみな記述を慎みたいというのが、私個人の偽らざる気持ちです。
少々悪態をついて理路整然さを欠きましたが、付言すると、ザッピーさんの返信は要領を得たもので、私が若年の澁澤氏のように、シュルレアリスムの濾過したサド像から離れられないのも否めない事実です(ただし、シュルレアリスムのサド聖化に確たる必然性があったということは、理解していただきたい)。個人的偶像尊拝は危ぶむべきことでもありますし、文面から、ザッピーさんの意見・態度は、極めて真面目なものと感受されました。私の文章は、若い学究への年寄りの繰り言と受け取っていただいても構いません。いずれにせよ、この意見交換の場が、サド侯爵につながる美しい上昇線を描いてくれることを希求してやまないのです。
最後に、ザッピーさんの言葉をそのまま返せば、私にとってはやはり− 「ジュスティーヌ」「ジュリエット」「ソドム百二十日」のサドがすべてです。
[No:117][るり] [98/2/8 23:23:51]
- こんにちは。はじめてきました。るりは M奴隷なんですが、
みなさんの かきこは 難しくて ばかな るりには よくわからないです。
SMの話と サド公爵の話は 別のものとして 話題になってるんですか?
日本人がSMすると ヘンなのですか?
るりは 日本人として SMできて よかったと 思ってます。
なぜなら 主人と奴隷は 「察し」をメインとする 関係であり、
察しは 日本の文化 だから・・・?
あー。難しいこと言おうとして 失敗した?(;;)
ばかな かきこで ごめんなさい m(__)m
また くるから もっと 簡単な 言葉で お話してー。 るり
[No:123][Zappie] [98/2/16 0:28:0] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
- Shinya様、素晴らしい文章どうも有難う御座居ました。
確かに言葉にすると、単なる「SMプレイ」と「観念的サディズム」との違いは明白ですが、このディスカッションのバックナンバー4辺りを読むと、どうしてもこのふたつの語句が同じ議論上に混合されてしまっていた感は否めなかったのです。
この討論の場が「サドの名を冠した品位のない戯れ事に堕する」危険性は確かにありますし、それらの「冗長」な文章を容認することが、結果的に新たなサド観を導きだすきっかけになるのか、それとも真面目なサド論者を遠ざけることになるのかは解りません。しかし、大学でサドを専門に研究しているような方以外の、様々なフィールドからの参加者とサドについて意見を交わせることは、インターネットでサド研究をすることの最も大きな利点であると思っています。
「サド研究の原点」と云えるかどうかは解りませんが、学問がサドを取り扱うようになったのはクラフト・エビング氏のサディズム・マゾヒズムの視点からだとも云えないでしょうか。これを正当なサド研究にとっては半分誤解された心理学の領域として切り捨て、シュールレアリズム以降のサド研究のみを相手にするのは、確かにサド研究の一般的な道筋だと思います。
これまで数々の文書の中で飽きるほど繰り返されたサド論の延長線上に留まるに終わるよりも、新たな視点を模索しての意見だったのですが、言葉遊びと云われたら返す言葉もありません。
自分の書き込みを気をつけて読んでいただければ解っていただけると思いますが、基本的には自分もShinya様と同じ考えです。
「"書く"という行為の根限的意味」、まさしくサドを理解する最も重要な意味はそこにあると思います。「簡潔明解な美文家としてのサド」も、見逃しがちですが、忘れてはならないサド文学の要素のひとつだと思います。シュールレアリスト達のサドの聖侯爵化に必然性があったことも、全くもってその通りだと思います。
[No:130][理佳子] [98/3/18 18:41:5] [Comment Number-1]
- 丸尾さんの論作文を読んで。
私自身のSM観を書きます。
世間で言われているSMは、みんなMMではないでしょうか?
言ってみれば、(精神的な)MとMとの性行為ではないかと思います。
Mの人に満足感を与えようすれば、やはり、同じ様にMの人でなければ何をすればいいか(何を言えばいいか)わからないでしょう。
M的精神的満足感を達成する行為のパターンとして、世間でいわれてるようなスタイルや役割分担が生まれたのでしょう。
相手をノせるのに、何もないより、定番スタイルがあった方がラクだからです。
でも、実際にはスタイルや役割分担の方が一人歩きしているように思えます。
私も、サディストは全くの別モノだと思います。
[No:132][理佳子] [98/4/2 13:1:52] [Comment Number-3] [http://www.tcup4.com/415/RIKAKO.html?]
- 下記の詩の意味がわかる人がいたら教えて下さい。
サドに共鳴する人であれば、理解できる方がいるかもしれないと思ったものですから。
腐敗性物質
魂は形式
魂が形式ならば
蒼ざめてふるえているものはなにか
地にかがみ耳をおおい
眼をとじてふるえているものはなにか
われら「時」のなかにいて
時間から遁れられない物質
われら変質者のごとく
都市のあらゆる窓から侵入して
しかも窓の外にたたずむもの
われら独裁者のごとく
感覚の王国を支配するゴキブリのひげ
われら
さかさまにしか世界を観察しない鳥の眼
やさしい殺人者の鳶色の眼
針の尖端にひかる歯科医の瞳孔
われら
蜻蛉の細い影
一枚の木の葉
一粒の小石
われらひとしなみ蒼ざめてふるえるもの
ふるえるものはすべて秋のなかにある
秋の光りのなか
流動する「時」と血のなか
涸れることのない涙のなかへ
すべてのものは行く
すべてのものは落下する
われら
ふるえるものすべては高所恐怖症
一篇の詩を読むだけで
はげしい目まいに襲われるものはいないか
一篇の詩を書こうとするだけで
眼下に沈む世界におびえるものはいないか
どんな神経質な天使にだって
この加速度は気持ちがいいにきまっている
天使の快楽はわれらの悲惨
精神は病めるもの
この暗い感覚の王国には
熱性の秘密がある
動かないもの
不動のもの
変化しないものは
この王国になにひとつとしてない
死者でさえ死にむかって動く
死にむかって変化する
死にむかって分解し溶解する
おお 瞬時に消えるもの
われら瞬時に消え
分解し
溶解するもの
だがそれは
変化のなかの変化にすぎない
それは変化ではない
真の変化ではない
(岩がほしい
変化に耐えて真に変化するものがほしい
岩そのものがほしい
その岩から
岩そのものの声を
生きているものの行為を
野獣の性的な叫び
ある夏の日の虫の翅音
日と夜を裂く稲妻の光りが聞きたい)
地上には雨がふっている
都市 あらゆる都市の窓がしまり
愛も偏見もかたくなに口をとざしてしまう
沈黙が暗号にかわり
暗号がシンボルにかわり
シンボルがおびただしい車輪にかわる
戸口という戸口から
巨大な暗緑色の車輪がとめどもなくあらわれる
鉱物質の叫びは
雨のなかへ
雨は路上へ
路上には群衆が
群衆のなかの群衆が
いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう
いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう
はげしく回転する車輪の軸
その熱性の中心
おお その性的遠心力によって
ふるえるものはすべては秋のなかに
秋の光りのなかに
魂の色のなかに
われら盲いたるものすべては
落下する
[No:134][ザッピー] [98/4/5 1:43:0] [Comment Number-130] [http://www.jah.ne.jp/~piza]
- 理佳子さんの云われる世間一般のSM=MMの思想に共感します。
「世間で言われているSM」の定義が具体的にどこからどこまでをさすのか不明瞭ではありますが、自分はこれを以前から云っている、思想的なサディズム・マゾヒズムではない、SM倶楽部や同様の趣味を持つものどうしで個人的に行われているシュミレーションとしてのSMプレイをさすものと解釈します。
「苦痛を与えられ喜んでいるのはサディスト」
「サディストはマゾを必要としない」
今までここで云われてきたこれらのキーワードが現す意味を深く考えてみれば、一目瞭然。サドとマゾは決して両極に位置するものではなく、真のサディストの対極に位置するものは、純粋に虐待されるだけの被害者だと云えるでしょう。快楽を感じさせる程度に力を加減して相手を虐待するサディストは、マゾの身になって考えているわけで、言わばマゾヒストのオルタナティヴにすぎないのです。サド文学でもリベルタン同士鞭打ったり打たれたり役割分担のようなことをしますが、これらは壮大な悪徳と殺戮の饗宴の合間に挿入された付属品のようなもので、現在世間で行われているSMプレイの要素と何ら変わりなく、勿論深い部分でサド文学の精神には全く関係ないものと思います。
ここで以前の問題を蒸し返してしまいますが、サディズムが本当にサド文学の精神と完全に無関係だと云いきってしまってよいものか? 疑問を感じる面もあります。自分も最初は、崇高なサド文学の精神がそこいらのサドマゾの趣味的世界の流れと同一のものとみられることを、何よりも嫌悪していたものの一人でした。しかし、サドが本物のサディストであったことは紛れもない事実。彼が歴史的に最も有名なサディストであることも事実。そして彼がそのサディズムの語源になったこともまた事実。
自分がサド文学の解釈にサディズムとしての視点を導入する点を見出すとすると、「快楽主義」「自己愛」「利己主義」、これらの言葉に尽きると思います。サドはこの獄中でこの概念を極限まで押し通すことによって、何よりもSM的なもの → ストイックな哲学的境地に達したとも云えないでしょうか。
サドの思想の根本原理は逆説。三島由紀夫は戯曲「サド侯爵夫人」のなかでサド夫人ルネの言葉を借りて「最も破壊的な人間であるサドが、文学によってものを作ってしまった」(今手元にテキストがないのでうろ覚えですが)と云わせています。「破壊的」な文学活動→「建設的」な新たなモラルを導きだすというサドの逆説的な文学姿勢に、そのままあてはまるものがないでしょうか。
徹底した自己正当化と利己主義による自己愛、これぞ「ソドム120日」「新ジュスティーヌ」「ジュリエット」等のサドの代表作に流れるサドの思想を根底で支える原理であり、他己への愛情の入り込む余地のある現代のSMプレイはまさしく、MMであるという結論に達すると思います。