1977/評論/現代思潮社(Gallimard/1955/France)
ボーヴォワールの有名な著書。タイトルの「FAUT-IL BRULER SADE(意訳:サドは焼かれるべきか)」は、恐らく、サド自身が有罪であるかということと、サドの書物は焼却するべきか(有害であるか)という二つの意味合いを含んでいるのだろう。
サドは文学から判断すると、鉄のような意志と猛烈な精神をもっていた人物のように思われがちだが、実際の彼は憶病で、社交性に欠け、社会を受け入れながら生きてきた。他に愛する恋人がいたにもかかわらず、親の意志に従ってモントルイユ家の縁談にも応じた。彼が文学のなかで表現しつづけた豪毅な精神は、彼自身のうちにあったものではなく、彼が何よりも渇望していたものだったのだ。
しかし、サドがルネとの結婚生活によって学んだものは、美徳にいきることの味気なさ、退屈さだった。そしてサドが自分の快楽を追求する行為が、社会と反発することを知るようになると、サドのエロティシズムは、文学という媒体を通して、「個人的な態度」から「社会への挑戦」へと変貌してゆく。
ボーヴォワールは、サドが文学活動へといたった必然性を語ったあと、サドの哲学のオリジナリティーを指摘する。「神」の存在を否定し、「自然」を主体として、新たな人間のモラルを導きだした思想は、サド以前にもあった。自然は悪である、従ってそれに対抗する人為的な道徳が必要である。また、自然は善である、よって自然に従うべきである。サドの哲学はこれらの一般的なクレドを根底からくつがえした。彼は「自然は善である」という能天気な考えを厳しく否定し、その一方で社会の中で人間が人間を裁くことの偽善性をするどく告発した。サドがその文学の中で、一貫して追求してきたことは、「罪悪を正当化する」ことにあった。
ボーヴォワールは、サド文学のもたらした意義性から、最後にはその限界、今日サドが受け入れられている理由を、するどい分析力で論じている。いまにして読んでみると、澁澤龍彦氏のサド文学の解釈とも、多くの共通点がみうけられよう。いわば「澁澤以前」のサド研究をあらためて考え直すには、欠かせない一冊である。
(ザッピー浅野)