「悪徳の栄え」とならぶ、サド文学後期の代表作のひとつ。1787年にバスティーユで2週間で書き上げた160ページの短編は、二度に渡って書き直され、広大な量に及ぶ長編へと発展した。内容的にはそれまでの「ジュスティーヌ」とほとんど変らず、美徳の少女であるジュスティーヌが、己の信心深く気弱な性格のために、次々と想像を絶する不幸に陥るという、勧善懲悪の正反対である。
「新ジュスティーヌ」での最も大きな違いは、前二稿が主人公であるジュスティーヌ本人の語り口による一人称形式だったのに大して、ここでは作者の語りによる三人称形式となっていることだ。つまり、サドはジュスティーヌのキャラクターを主体性の薄い、非難され攻撃され虐待されるだけの完全なるオブジェクトとしてしまった。それに則して、究極のラストもそれまでにあったサドの良心の要素は完全に影をひそめ、全面的に悪徳が勝利する結末となっている。
ここで、サドの描くヒューマニズムというものに関して、私見を述べさせていただく。
長々と続く哲学談義、エロスそのものを否定するかのように延々と続く饗宴。サド独特の言語体系は、あらゆる人間的なコミュニケーションを拒絶しているかのようにみえる。しかし、本当にそうだろうか? 確かに彼の長編小説における作風の無機的な質感は、サド文学の特色であるすさまじい否定精神と邪悪なエネルギーを裏付けている要素ではあるが、しかし、決してすべての感覚が、象徴的に閉鎖された言語体系のなかにとどまるものではない。
ジュスティーヌは、「宗教」や「美徳」の立場を代表する象徴的なキャラクターであり、如何なる不幸が彼女をボロボロに引き裂こうと、リベルタン達の哲学が彼女の固定観念を打ち負かそうとしても、決して自分の信条を改め直すことはない。しかし、ジュスティーヌの「美徳」や「宗教」への執着は、決して「強固な意志」からもたらされるものではなく、反対に「薄弱な意志」によるものであることが重要な要素になってくる。
従って、ジュスティーヌは話の途中、男色だと知っているブレサック侯爵に恋をしたり、彼に気にいられるために自ら侯爵の一物を擦ってみせたり、時には少々その気になって、その尻をさしだそうともする。しかしその意志の弱さ故、最後には堕落を恐れ、美徳の道を選んでしまうのである。悪人達のキャラクターにもそれぞれ段階がふんであり、なかには完全に悪徳に染まりきっていないもの、ストーリーを通して成長するもの、脱落するものの構図が、はっきりと描かれている。
18世紀フランスと、今日の日本との隔たりは免れないものの、これは立派にサドの人間探求の一端ともいえないであろうか。ジュスティーヌのキャラクターには、サド自身が人生の中で接してきた様々な女たちの優柔不断な態度などの、嫌悪すべき側面が盛り込まれていることは明白のように思われるし、サドの精練された文章によって展開される人物達の会話や行動は、コミュニケーションの欠如した無機的な言語体系の中でのドラマに押し込めてしまうには、際立ったビビッドなものがある。サドの偏った色眼鏡を通して描かれた世界観は認めざるを得ないものの、サドも「人間を描いていたのだ」ということは、一応にいえる見解ではなかろうか。そしてその要素は、間違いなく「ガンジュ侯爵夫人」や短編集「恋の罪」などのような公的な作品のなかよりも、サドの作風にストレートで忠実な「新ジュスティーヌ」のような作品にこそに強く感じるものがあるということも、確かなことである。
「新ジュスティーヌ」の文庫本(澁澤龍彦訳)。1/4のエキストラクト。私の主観かもしれないが、初めてサドを読むかたには、オススメできない。なぜかというと、サド文学本来の、その「長さ」「単調さ」から醸しだされる持ち味が、ちょうどいい長さの、しかも体よく起承転結がまとまった(ように見える)部分をぬきだしてしまったことによって、殺されてしまっているような気がするのだ。「悪徳の栄え」の1/3の短縮版などは、まだ作品の全体の魅力がかろうじて保たれているが、こちらは、抜きだした部分がたまたま悪い意味でまとまった印象になっている感じである。
(ザッピー浅野)
"初めて読んだサドの作品です。そのとき私は中学生でした。あまりにも未知の世界にただただ「すげえ」と思ったのを鮮明に覚えています。
他には「ソドムの百二十日」「悪徳の栄え」を読みました。やはりショッキング・・・。
常識なんてものはどこにもないと思い知らせてくれた本の中の一冊です。"(まどか)
"個人的には「新ジュスティーヌ」が好きです。"(Koichi Nagai)