悪徳の栄え/La Vice et la Vertu

ロジェ・ヴァディム監督/Roger Vadim

1962/フランス映画


coming soon

 ナチスドイツ占領下の町にいる、美しい二人の姉妹。姉のジュリエットはナチスの将校の愛人となって、その残虐非道な行為に、みずから進んで身を近づける。いっぽう妹のジュスティーヌ(これがカトリーヌ・ドヌーヴ)はナチスに抵抗するが、ついには捕らえられる。収容所で再会した姉妹であるが、最終的には二人とも死ぬ……。
かつて三島由紀夫はこの映画を評して、サドとワーグナー、サドとニーチェを結びつけ「拷問や奴隷化のかなたには、永遠の歓喜と死と美が横たわっているという哲学を、この映画はぬかりなく表現している」と大絶賛した。しかし、三島が言うような哲学は、残念ながらこの映画には見当たらない。 この映画にサドの思想は、何一つ反映されていない。サドの思想の根本的な問題である、理念の対立(ex.悪徳vs.美徳)という図式はほとんど表現されていない。たんに退廃的な雰囲気の映画を作るために、そしてその雰囲気の中で、当時の恋人であったカトリーヌ・ドヌーヴを、いかに「輝くような美」の持主としてスクリーン上に登場させるか。ただそのためだけに、ヴァディムがサドの名(正確には作品のタイトル)を借りたとしか思えないのである。
ようするにひとこと。「くだらない」映画であった。

情報提供:Aya


正式なサド文学の映像化というには余りにもルーズすぎるインタープリテーションである。
ジュスティーヌは完全な美徳の少女にあらず、ジュリエットも完全な悪徳の少女にあらず、ラストは姫もおっしゃっている通り、サド文学の世界観とは完全にかけ離れた中途半端な終局だった。
サドの思想を忠実に映画というメディアによって表現しようとしたというよりは、ヴァディムの制作意図は何か他のところにあったようにみえる(それが何かは解らないが)。見たところ第二次世界大戦中のナチというシチュエーションに描かれた善と悪の葛藤の中に、サド的なキャラクター性と状況をパロディカルに盛り込んでみたという感じで、結局サド的な要素は付属品ほどの割合しか占めていないのではなかろうか。
現に、確か澁澤氏も云っていたと思うが、タイトル・クレジットには「原作:マルキ・ド・サド」という記述は見当たらなかったようだ。
本編中、最もサド文学らしかった部分は、やはりジュスティーヌが連れてこられるナチ収容所の形而上的なハーレムで、「ソドムの120日」には程遠いかもしれなくも、僕にとって「新ジュスティーヌ」や「悪徳の栄え」の幾つかのシーンを想起させるには十分なシチュエーションだった。
他にもうひとつサド文学に忠実なところをあげるとすると、やはりジュリエット役の女優よりも、ジュスティーヌ役のカトリーヌ・ドヌーヴの方が美人だった点だろう。サド文学を読んでもジュスティーヌはジュリエットよりも「イイ女」であることが明確に描写されているが、やはり例えジュリエットの方が思想的には肯定的なキャラクターであっても、つい虐められ責苦を受ける対象の方に”美”の重点を置いてしまうのが、男性アーチストの性というもの。
「美意識」という言葉からは程遠い哲学者だったサドでさえそうなのだから、根っからの耽美主義者のヴァディムだったら尚更だったのだろう。

(ザッピー浅野)


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