とりあえず、以下、書いて行きますが、私は文学や哲学を、またSMやサド、マゾ を専門的に研究しているわけではありません。またそれらを専門的に研究したこと もありません。そんなわけでこれは、論文、というものでは全くなくて、ただ、私 が思っていることを書いているだけです。そんなわけで、もうこのようなことは誰 かが言っていることのようにも思われます。それでも、とりあえず、私が思ってい ることなので、このように書きました。そんなわけで、一般的な、また学術的なも のと比べ、間違いや勘違いなどがたくさんあるのでは、と思いますが、その辺は許 してください。

 <SMに関して>

 SM、と言う言葉を見かけますが、私は今回、このSMについて、書いていこうと思 います。その前に、ここでいう「S」と「M」とはいったいなんなのでしょうか?
 普通、「S」とは「サド」という読むでしょう。また「M」は「マゾ」と読みます ね。その意味はというと名前どうりに「S」を「サド」の意味だと思い、また「M」 は「マゾ」の意味だと思っているでしょう。ここで辞書を見てみると、辞書なんか には「サド」という言葉は、「『サディズム、サディスト』の略である」と出てい たりします。また「マゾ」という言葉は、「『マゾヒズム、マゾヒスト』の略であ る」と出ていたりします。しかしここで私は「S」を「サディスト」、また「M」は 「マゾヒスト」、として使って行きます。ここでなぜこのよう「S」や「M」という 言葉の読み方、使い方を書いたのかというと、「S」を「サド」とは読んでほしくな い、思ってほしくない。また「M」を「マゾ」と読んでほしくない、思ってほしくな いからなのですが。一応あとで「サディスト(S)」、「マゾヒスト(M)」の私の 定義を書こうとは思っています。

 ここで「サディズム、サディスト」という言葉ですが、これは『ドナティアン・ アルフォンス・フランソワ・ド・サド(または、マルキド・サド)』という実在の 人物名からきていて、また同じように、「マゾヒズム、マゾヒスト」という言葉は 、『レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ』という人物名からきているわけで す。このことはここで、書いておきます。

 でははじめに、「M」、すなわち「マゾヒスト」、という言葉について、見て行き たいと思います。
 まずは「マゾヒズム」、という言葉についてですが、これは日本語で、「被虐性 変態性欲」というそうです。広辞苑には「異性の相手から身体的・精神的な虐待・ 苦痛を受けることによって性的満足を得る異常性欲。一般には被虐趣味を言う。」 と出ていたりします。この言葉の産みの親、名ずけ親は精神病学者のクラフト=エ ビングだそうです。このことからもわかるように、「マゾヒズム」ということばは 精神病理学の言葉なわけですが。そこで「マゾヒスト」ということですが、「被虐 性変態性欲者」ということになるでしょう。マゾヒズムの傾向を持つ人、というわ けですが。まあだいたい、被虐性変態性欲、という言葉で大体わかってしまいます が、ここで私の「マゾヒスト」という言葉の定義を書いておきたいと思います。そ の定義、「マゾヒスト」とは、
     「肉体に受ける苦痛を快楽と感じる人、肉体に受ける苦痛を喜ぶ人」
です。一般的な定義、辞書に載っているものとの違いですが、とりあえず、「精神 性」という点を重要視はせず肉体性を重要視しているということです。定義は、そ のどちらかを重要視している、ということはないのですが、私は精神性を無視する くらいの感じで肉体性を重要視しています。それゆえ「肉体に受ける苦痛を快楽と 感じる人、肉体に受ける苦痛を喜ぶ人」と、定義付けているわけです。以下で出て くる「マゾヒスト」という言葉は私の定義で使われていると思ってください。
 ここで一度、なぜ「マゾヒズム(マゾヒスト)」という名が「マゾッホ」という 人物名から来ているのかということを書いておこうと思います。そのわけというの は、マゾッホが『毛皮を着たビーナス』という小説を書いたからです。その小説に は男性の主人公が出てくるわけですが、その主人公は女性に鞭打たれ、またこき使 われることを喜ぶのです。そんなわけで、マゾヒズムの語源としてマゾッホの名前 が使われたのですが、私はこの主人公を「マゾヒスト」とは呼べないのではないか 、と考えています。
 私はこの『毛皮を着たビーナス』という小説は「愛」というものが主題となって いると思っています。(もし愛がいいすぎであれば、恋。恋もいいすぎであれば、 人を好きになる、ということなのですが。)それゆえに、この小説の主人公はあの ようなマゾヒズム的な行為を行うのです。(ここで、愛、や、恋、という言葉が出 てきますが、あまりはっきりとした定義付けや意味は気にせずに読んでください。 私もただ何となくの感覚でつかっているので。もし、美輪明宏氏の考え、「恋は自 分勝手であり、愛は自己犠牲である」、で行くとすると、ここでは、とても愛とは 呼べず、恋ということになると思いますが。)
 主人公はある女性を愛するわけです。(好きになる、恋するでもいいのですが。 )それで、彼女を恋人にしたいわけですがそれがかなわないわけです。もしかなっ ていればなにも問題はないのですが、かなわないので問題が起こります。主人公は 彼女のそばにいたいのです。彼氏としてはそばにいることはできません。それでど うするかというと、主人公は彼女の奴隷になるわけです。そうして主人公は、彼女 から奴隷としてあつかわれ、それゆえに鞭打たれ、こき使われるのです。
 上に書いたものは、私の解釈によった『毛皮を着たビーナス』のあらすじ、とい うものです。主人公が奴隷になろうとするのには、その小説の時代背景としてまだ (現代のSMにおける主人と奴隷という関係ではない)奴隷制というのがある、とい うこと、また主人公の恋愛感というものも作用しています。とりあえず、主人公の 恋愛感を書いておきますが、主人公は『愛に平等はない』と考えています。『支配 するか、征服されるかのどちらかしかない』と。そう考えているので、彼女を愛し 続けるためには、支配できなかった主人公は征服されるしかないのです。それゆえ 主人公は彼女の奴隷になるわけですが。小説の中で主人公は鞭打たれたり、たたか れることを喜びます。確かにこれはマゾヒズム的であります。しかし主人公が喜ぶ のは、肉体に受ける苦痛、ではないと、私は考えています。主人公はただ、彼女と 接することができる、そのことを喜んでいるのです。主人公は彼女にとって奴隷な わけです。それゆえほとんどの時間を彼女とは接することができないわけです。主 人公が彼女と接することができるのは、特に彼女と一対一で、彼女がただ彼へと向 かい彼を意識した状態で接することができるのは主人公が奴隷として懲罰を受ける ときなわけです。当然懲罰を受けるときは肉体的な苦痛を与えられるわけです。そ こで主人公は喜ぶ。そんなわけで主人公はマゾヒストであると誤解が生じるわけで すが。何しろ主人公が喜んでいるのは、彼女と一対一で接することができている、 からで、肉体的な苦痛を与えられる、ということがその喜びの本質ではないと、私 は考えています。
 と、以上書いてきた理由により、私は『毛皮を着たビーナス』という小説の主人 公をマゾヒストとは呼べないと思っているわけです。主人公はただ、ある女性を愛 した、と。その愛しかたが変わっていた、と。

 少々長くなってしまいました。それにしても、私の見方で行くと『毛皮を着たビ ーナス』から読み取れることと、また私の定義でのマゾヒストとは大分違って来る わけです。
 まず私は「マゾヒスト」を「肉体に受ける苦痛を快楽と感じる人、肉体に受ける 苦痛を喜ぶ人」と定義しておきました。ここで「マゾヒズム」という言葉に関して ですが、「マゾヒズム」は「肉体に受ける苦痛を快楽と感じる、肉体に受ける苦痛 を喜ぶ」という、(肉体性重視の)定義でいいのではないか、と思っています。そ のうえで『毛皮を着たビーナス』の主人公をただ単に「マゾヒスト」と呼ぶのも、 また、『毛皮を着たビーナス』をマゾヒズムに関して書かれた小説、といったりす るのもどうかな、と感じているわけです。
 ここで「マゾ」なのですが、この「マゾ」という言葉を『毛皮を着たビーナス』 の主人公のような場合には使いたい、ようは、「愛」というものが出てきたうえで のマゾヒストには「マゾ」という言葉を使いたい、そのように私は思っているので すが。(『毛皮を着たビーナス』には愛という言葉がよく出てきていますが、サド 作品には愛という言葉は出てきていましたっけ? )

 これからは「S」、すなわち「サディスト」について書いていきます。はじめに「 サディズム」という言葉ですが、これは日本語で、「加虐性淫乱症」というそうで す。広辞苑には「相手を虐げることによって性的満足を得る異常性欲。一般的には 嗜虐的傾向を言う。」と出ていたりします。この言葉の産みの親、名ずけ親はマゾ ヒズムと同じように精神病学者のクラフト=エビングだそうです。そこで「サディ スト」という言葉ですが、これは「加虐性淫乱症者(加虐性淫乱症の人)」となる のでしょう。ここでまた、私の定義を書いておきたいと思います。その定義、「サ ディスト」とは
      「相手の肉体へと苦痛を与えることに快楽(喜び)を感じる人」
です。これもマゾヒストのところと同じように、肉体、肉体性を重要視しています 。精神性を無視しているわけではないのですが。この定義においては、「言葉のみ で相手を傷つける」、そのような人はサディストとは呼びません。一般の定義では 肉体性同様に精神性も加味するのでそのような人もサディストと呼ぶとは思います が、私の定義ではいれないことにしておきます。以下、サディスト、という言葉は 私の定義で使われていると思ってください。
 さて、ここでも、その名前の由来になっているマルキド・サド(以下M・サド)の 小説(『悪徳の栄え』または『ソドム百二十日』)をみてみたいと思います。

   と書きましたが、あらすじなどは書きません。とりあえず書いておきたいことは 、M・サドの小説に出てくる(主人公的な)登場人物はみなサディストである、とい うことです。(ここでサディストという言葉を使うのは、全くもって正確ではない 、と思っています。この後で少し付け足した定義を書きますが、それでも正確では ないな、と感じています。確かにサディストではありますが、主人公的な登場人物 に対してはその言葉でくくってしまえないのでは、と思っていますし。そのために 今こうしてSMに関して書いているのですが。M・サドや作中の主人公的な登場人物に は、サディストという言葉以外の言葉が必要だと思っていますが、とりあえずは、 サディストと呼んでおきます。もう一度書いておきますが、本当はここで、サド作 品の登場人物などに関してサディストという言葉を使っていることは不正確で物足 りなく、私自身は不本意なのです。まあ、読んでいる人の大半には通じているはず なのでいいのですが。)ではなぜ、M・サドの小説をみてみたいかというと、それら の小説にはサディズム・サディストのことが書かれていて、サディストについての 重要なことが読み取れるからなのですが。その重要なこととは、
          「サディストはマゾヒストを必要としない」
ということです。これは次のような質問をすれば、M・サドの小説を読んでくれた人 は納得してくれるのでは、と思うのですが。その質問とは、
 「小説の中に出てくる人物で、主人公的人物により苦痛を与えられる人物たちは 、その苦痛を喜んでいるのでしょうか? また、苦痛を与えられ喜んでいるのはい ったい誰でしょうか? 」
 と、これが私からの質問です。

   以下、この質問に関しての、私の解答、または意見を書きたいと思います。
「主人公的人物により苦痛を与えられる人物たちは、その苦痛を喜んでいるのでし ょうか? 」これは「No」です。彼等はマゾヒストとは呼べないでしょう。彼等を 呼ぶとすると「マゾヒスト」という言葉よりも「被害者」または「犠牲者」という 言葉が最もぴったり来るのではないでしょうか。
 次に「苦痛を与えられ喜んでいるのはいったい誰でしょうか? 」ですが、私は 「主人公的人物」と答えます。ここのはじめに私は、「(主人公的な)登場人物は みなサディストであります。」と書きました。そのような人物たちが苦痛を与えら れ、喜んでいるのです。サディストがマゾヒストであるのです。(このことについ てはサドを考えるときに重要だと思っていますが、まあ今回は関係がないので。)
 以上が私の解答です。ここで主人公的登場人物はサディストであるのですが、私 の定義ではこの主人公的登場人物に対しては少々言葉が足りないように思うので、 付け足した定義を書いておこうと思います(もう一度書いておきますが、主人公的 登場人物に対してサディストという言葉は不適切だと思っています。なにしろここ ではサディストという言葉、私の書いた定義に補う上で書くとすると、という条件 付きなのですが)。登場人物に対して「サディスト」と使うときの定義は「相手の 肉体へと苦痛を与えること、また苦痛を与えられた相手がその苦痛を喜びに感じる ことなくただただ苦痛と感じていることに快楽(喜び)を感じる人。」となると思 います。
 いろいろと書いてきましたが、なにしろここで言いたいことは「サディストはマ ゾヒストを必要としない」ということです。

 やっと、今回書こうとしている「SM」のことが書けるようになりました。
 SM、です。SとMがべつべつではなく互いを必要として、一つの対になって存在し ているわけです。サディスト、のところでみましたが、サディストはマゾヒストを 必要としないわけです。(とりあえず、マゾヒストについては言及しません。すく なくともただのサディストは必要ないと考えますが。)それなのに、引っ付いてい るわけです。この二つ、SとMをつけているものはいったいなんなのでしょうか。
 とりあえず、「M」、すなわち「マゾヒスト」の(私の)定義を書いておくと、「 肉体に受ける苦痛を快楽と感じる人、肉体に受ける苦痛を喜ぶ人」ということでし た。「S」、すなわち「サディスト」の定義を書いておくと「相手の肉体へと苦痛を 与えることに快楽を感じる人、相手の肉体へと苦痛を与えることに喜びを感じる人 」ということでした。確かに、一方は苦痛を受け、一方は苦痛を与えるわけですか ら、この二つが結び付くのは普通のように思われます。しかしそう考えるのは、少 しばかし表面的であると思うのです。そしてその二つを結び付けているのはそれだ けではないと。
   私はこの二つ、SとMを結び付けているものは、「社会、社会性」だと思うの です。
(ここで「社会」とか「社会性」という言葉が出てきますが、これもはっきりとし た定義づけなしで使っています。そこのところを了承して読んでいってください。 )「苦痛を受け、苦痛を与える」という結び付きはある種、「需要と供給」という 結び付き、といえるのではないでしょうか。社会において需要と供給というものが 、必須の条件かどうか私はわからないのですが、少なくとも、社会というものの中 に、需要と供給、というのがあるのは否定できないのではないでしょうか。もしそ うであれば、「苦痛を受け、苦痛を与える」という結び付きでさえも、「需要と供 給」として社会というものの中に入れ込まれてしまうと思うのですが。そのような ことを出さなくても、SMのなかに、契約、という社会性があるのは明らかだと思い ます。まず、マゾヒストの側ですが、こちらは明らかに契約が必要な立場にあると 私は思います。それはなぜかというと、マゾヒストは苦痛を与えられ、そしてその 苦痛を受けるわけですが、その苦痛はどのような苦痛でもいい、というわけではな いのです。マゾヒストが望む苦痛は、彼等が快楽と感じられる範囲内になければな りません。明らかに、腕を切断されるのは苦痛でしょう。しかし、マゾヒストはそ のような苦痛を望んではいないのです(サディスト側は望んでいるもしれませんが )。マゾヒストは、そのような腕を切断するというような苦痛を与えない、という ことをサディストと契約(約束)しておかなければなりません(それが目に見える 形でない場合がほとんどですが)。そしてそのような契約があるからこそ安心して マゾヒストとしていられるのです。そしてサディストですが、こちらは契約など必 要がないように思われますが、こちらも実は必要があるのです。その契約とは、マ ゾヒストはサディストを訴えない、という契約です。もしサディストがマゾヒスト に行うようなことをマゾヒストではない、一般の人に行ったならどうでしょうか。 これはただの暴行であり、また犯罪です。そのようなことをマゾヒストに対して行 っているのですが、それは、目に見えない形ででもそのような契約(あなた(マゾ ヒスト)に対してはそのような暴力行為を行ってもかまわないという了承)がある からだと思うのですが。お互いが信頼をしているといってもいいかもしれません。 しかしその信頼というものもそのような、表面には現われない、契約があるからこ その信頼なのではないのでしょうか。
 もっといろいろとみることもできると思います。しかしなにしろ「S」と「M」が 単独で存在せずに、合わさった、一対のものとなった「SM」というものには、社会 、というものがみえてしまう、と私は思います。もう少し言うと、「S」と「M」を 結び付けるのは社会というものであり、また、結びつくことによって、社会という ものに含まれてしまう、と。
 そんなわけで、SMにおける「S(サディスト)」は特に「社会的サディスト(社会 的S)」と、そして同じように、SMにおける「M(マゾヒスト)」は「社会的マゾヒ スト(社会的M)」と呼びたいと思うのですが。

 以上が私がSMというものについて書きたかったことです。なにしろ、SM、は社会 的過ぎると。

 「サディストはマゾヒストなしには存在しえない。その逆もまた然り」というこ とを聞きますが、これは、「サディスト(S)」と「マゾヒスト(M)」が、それら が「SM」として、社会性というものをともなったとき、別の言い方をすれば、社会 というものに含まれ、社会というものに飲み込まれてしまったとき、は正しいとい えるでしょう。「サディスト(S)」と「マゾヒスト(M)」にヘーゲルの「主人と 奴隷」という図式を使うとすると、もう、すでに「主人と奴隷」という社会、社会 性、が出てきてしまっています(単独で存在することなく、「SM」になってしまっ ているわけです)。それゆえに「サディストはマゾヒストなしには存在しえない。 その逆もまた然り」が正しくなるのですが。
 もし、社会、社会性が出てこなければ、「サディストはマゾヒストなしには存在 しえない。その逆もまた然り」は正しくないわけです。別の言い方をすれば、SMで はなく、サディストはただ単体としてサディストとして存在し、またマゾヒストは ただ単体としてマゾヒストとして存在できれば、正しくないわけです。その正しく ない場合というもの、そのような場合を、「サド」は含んでいるのでは、また主張 しているのではないでしょうか? (ここではサドという言葉のはっきりとした定 義はなしに使いますが。それでもここで使うサドは、M・サド、またはM・サドの作 品群として使っていると思ってください。)

 以上書いてきましたが、もちろん昔もそうでしたが、今の社会に照らし合わせて もSMは異常であり社会的ではないと思います。しかし、M・サドなどに接した後に SMを見ると、やけにSMは社会的に(私には)見えるのです。

 サド、という言葉があります。そのなかには(私の言う)社会的サディストも含 まれてしまっています。『しかしそれは・・・・・』と私は思っています。とくに 、M・サドを知ったり、そのM・サドの作品群を読んだりすると。
 少しサドについて書いておくと、サドは社会よりも個人へと向かっているように 感じます。そして社会そのものを破壊しようとしているように見受けられます。そ う見れるのにサドを社会性の中に含んでしまうのはちょっと・・・、と思っている のです。

 なんか長くなってしまいました。とりあえずこれは「サド」という言葉、「サド 」の意味をはっきりさせるために書いた、補足のようなものだと思っております。 本題は「サド」なのですが、「サド」は大きすぎます。それゆえ「怪物」という感 じがしますが。今回書いたものも「サド」にはまだまだ程遠い物だと思います。

 一番始めにも書きましたが、私は素人なので。様々なことは許してください。間 違いなどは教えて下されば、と思っております。
 ここに書いたことだけでは、私の言いたいことがすべてしっかりと伝わっていな いのではないか、とも思われますが、まあ、しょうがないでしょう。

                    と、以上、きゅうでした。



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