サドを語る・バックナンバー3

1997年8月4日〜8月23日



[No:65][ヘルカッツェ]  [97/8/4  18:13:19]  
こんにちは。ヘルねこさんです。

サドとは直接何の関係もないのですが、小説を書く身としてひとつ思うことがあるんです。男性の作家には「文豪」という人がときどきおりますが、女性にはおりません。
そしてたいてい「文豪」というような作家は「性欲が余っている」みたいな人が多いのです。ゲーテもトルストイもそうだし、谷崎もそうだし、鴎外もなかなかのものです。漱石だけは、文豪ですが、胃弱がわざわいしてか、あまり女の方はさかんではなかったように見受けられます。
女性では、サッフォーとか与謝野晶子みたいな「詩人」には多情な方がおられますが、そもそも長編をたくさん書いた人がおりません。(女性で長編を書いた人は、ワンアンドオンリーになりがちです。『風と共に去りぬ』とか『嵐が丘』とかね。私はこの手の小説は嫌いなんですが。)
男性の作家がすべてそうか、というと、そうでもなくて、芥川や梶井基次郎みたいな病弱あおびょうたん系の人は、短編しか書きませんよね。
長編小説を書く、というのは、非常に体力が必要だと思います。ある意味で、リピドーが激しくなければだめだなあ、と思います。
私の場合は、小説(まだ長編はないのですが、短編小説でさえ)を書いていて、「子どもを産む力を削って書いてるよなあ。これじゃ、結婚して子どもが産めるかしら?」と悩んでしまいます。
長編小説を何本も書くためには、ゲーテやトルストイのような「女の敵」の種付け男くらいの性欲がなければパワー不足だろうか、などと考えてしまいます。
(そういえばサドもたいしたものですよね。)
文学の性差という問題を考えると、まず表現以前に、こういうことがある、と思うのですが、皆さんどうお考えでしょうか?
ほんとに、男女差の善し悪しでなく、小説を書いていると、文章力のなさとか構想の貧しさ以前に、自分の体力のなさをくやしく思います。あまり男性をうらやましく思うことは少ないのですが、このときばかりは芥川タイプでなく鴎外タイプの男性をうらやましく思います。
(別に、性差にこだわっているわけではありません。念のため。)

[No:66][丸尾]  [97/8/5  2:33:56]  
 どうも、丸尾です。
 ヘルカッツェさん、まず、ヘルねこさんと呼ばさせてもらいます。
 ええと、読みました。とりあえず、ヘルねこさんが何を問題としているのかが分かりずらく感じました。「長編小説を書く、というのは、非常に体力が必要だと思います。ある意味で、リピドーが激しくなければだめだなあ、と思います。」と書いていますが、小説を書くうえでの肉体的体力、というものを問題としているのか、また精神的意欲を問題としているのか。性欲ということも問題になっているようですが、ここで言う性欲とは? 「自分の体力のなさをくやしく思う」とありますが、どのようなことで、体力がないと感じているのでしょうか? その辺が分かりずらくも感じます。「文学の性差を考えると」と書いてあったりするうえでその下には「性差にこだわっているわけではありません。」とありますが、文学の性差を考える場合はやはり、性差にこだわらないと話にならないのではないでしょうか。まあ、私が使っている「性差」と、ヘルねこさんが使っている「性差」ということの意味が違うかもしれませんが。「小説を書いていて「子どもを産む力を削って書いてるよなあ。これじゃ、結婚して子どもが産めるかしら?」と悩んでしまいます。」と書いていますが、ヘルねこさんはなんのために小説を書いているのでしょうか? ヘルねこさんにとってパワー不足や体力のなさというものが、どのような弊害になっているのか、その辺も私にはわからなく、またヘルねこさんがここで言おうとしていることを考えるうえでの重要な点になっているようにも感じるのですが。
 と、書いてきましたが、なんか、ヘルねこさんを攻めているような文になっているようにも感じますが、そんな気は全くないので。もしそうとれてしまったのならば、本当にすみません。
 とりあえず、私が感じたことを素直に書きました。ほとんど質問状のようなものになってしまいましたが。私は思ったのですが、ヘルねこさんの書いた小説には「小説を書いていて「子どもを産む力を削って書いてるよなあ。これじゃ、結婚して子どもが産めるかしら?」ということが出てきているように感じます。別に直接的に内容に出てきている、というわけではなく、何かしら、その雰囲気とかかもしれないのですが、何かしら、に。
 また何かしらの反応があるのではないか、と思いつつ考えておきます。いろいろと。なんかここまで書いてきて思ったのですが、私に(ヘルねこさんの文章を)読み取る力がないだけのように感じられてきました。いやはや。
 一応はこのへんで。
 と、書き忘れ。なんか、「ヘルねこさん」って、響きがかわいらしく感じました。と。
 それでは、また。

[No:68][ザッピー浅野]  [97/8/8  12:45:21] [Comment Number-66] [http://www.jah.or.jp/~piza/]
僕もサドの文学や黒沢明の映画を見ていてしみじみ思いますが、小説に限らず、創作というのは確かに体力がいるものですね。この「体力」というのが肉体的なものをさすのか、精神的なことをさすのかははっきりとは言えませんが、多分両方だと思います。精神的なものが肉体的な現象に影響を及ぼすことは間々ありますし、その逆もあるわけで、精神と肉体というものは常に連動しあっているものだと思います。その精神と肉体の微妙な接点の部分に、小説やその他の創作に繋がるパワーが潜んでいるような気がします。基本的に芸術といものは精神からほとばしり出たものですが、それを実際に産出するのは肉体的器官ですし。
サドの作品から強烈に感じるものとして、彼の体力は勿論ですが、やはり彼のリビドーの凄さは否定できないでしょう。しかもサドのリビドーは、一見ストレートな欲望のようにみえて、極めて逆説的な体質を持っていると思います。例えばゾラの「ルーゴンマッカール叢書」やプルーストの「失われた時を求めて」などにも、同量のパワーを感じますが、彼等の場合は純粋な「人間研究」や「自己追求」などの健全な探求精神に転化されています。その根源にはやはりリビドー(=性的的欲望)があることは確かですが、このリビドーを如何に普遍的なモラリズム(=人間研究)に浄化させるかに、文豪たる所以が宿っているのかもしれません。サドのエロスが全面を支配する悪徳と残虐の哲学が、谷崎のような快楽的耽美主義とはっきり質を異にし、精神世界の深遠さにおいて遥に超越したものである点を考えてみても、サドが逆説的な意味でゾラやプルーストに決して劣らない文豪であると言うことは、間違いではないでしょう。つまり、サドはエロスと悪徳の文学を極限まで追求することによって、返って禁欲的でモラリスティックな境地を極めてしまったのではないでしょうか。

文豪に女性が少ないというのは、体力の問題の他に、リビドーが少ないということは、あるのかもしれません。あと、社会的なこともあるような気がします。これに関しては気がするだけで、具体的に考察はしていませんが。

ちなみにゲーテも「性欲が余っている」人のひとりでしょうか。「若きウェルテルの悩み」や「ヘルマンとドロテーア」だけしか読んでいないのですが、そんな気はしなかったのですが。これに関しては、ドイツ文学の専門家であるヘルさんの意見をお聞きしたいと思います。

[No:72][よしこ]  [97/8/18  1:20:34] [Comment Number-70] 
はじめてこちらに書き込みします。
 ヘルカッツェことヘルねこさんと丸尾さんのやりとりでは、全面的に丸尾さんを支持したいですね。
 ヘルねこさんの場合、リビドーというか性欲が強くなければ長編小説が書けないと断じ切っていますが、性欲と創作力は全く別物なのではないでしょうか。
 こんな当たり前のことを、なぜこうして書かないといけないのか、理解に苦しみますが、丸尾さんもご指摘のとおり、ヘル猫さんはずいぶん性差にこだわっているようですね。
 男性作家は性欲を解消するために小説を書いているわけではないでしょう。それに、「子どもを生む力を削っている」と思って書いている女性の作家もいないでしょう。いるとしたら、やはり自分の創作力不足(あるいは時間不足)の言い訳にすぎないのではないでしょうか。
 どちらにせよ、ヘルねこさんの発言は、男性作家、女性作家、どちらに対しても冒涜のように思います。
 結婚前からそういうことを言うのは、前もって「子育て」を自分が小説が書けなくなる(書かなくてもいい)言い訳にするためなのでは、と勘繰りたくなります。
 丸尾さんは「攻めているわけではない」と言っていますが、私は同じ女性として、敢えて攻めてみたいですね。
 サドと関係なくて、すみませんです。

[No:74][ヘルカッツェ]  [97/8/19  17:30:41]  
ヘルねこさんです。

前回は、わたしのぼやきをそのまま書き込んでしまいましたので、いまいち言いたいことがよくわからない、というご指摘は正しいと思います。
丸尾さんのご指摘を「責めてる」とはまったく思いません。
その上にザッピーさんが書かれているように、「リピドー」の問題です。サド作品を読めば、リピドーの激しさが作品につながっていることはよくわかると思います。(別に、作品の内容がエロチックであるか、ストイックであるかは関係ありません。ザッピーさんのおっしゃるとおり、プルーストも、すごいリピドーだなあ、と感じます。)
そして、たいてい「文豪」なる人たちは、「若いころ女を孕まして捨てた」とか「妾宅に女を囲っている」系の人が多いのです。(プルーストみたく、相手が男、という人もいますがね。)男性作家でも、「須玉の短編をいくつもものした」という感じのひとたちにはそういう人は非常に少ないのです。
また、女性の文学者でも、多情なひとはいますが、たいてい詩人です。詩は詩でこれも非常に創作に苦しむことはわかりますが、(与謝野晶子には頭がさがります。子どもをたしか9人産んで、それであれだけの詩作など、わたしには不可能だと思います。)でもなぜか長編の世界的文学作品をいくつもものしている人に女性はいないのです。
そして、自分自身が創作をしていて、肉体的な体力ではなく、もっと根源的なパワーの少なさを思うのです。
私がザッピーさんにお渡しした小説は、短編が二本ですが、(そしてそのふたつともにセックスシーンがありますが、セックスシーンの有無の問題ではなく)「子どもを産む力を削って書いている」のですよ。むろん、この掲示板にこう書いてからそう思ったのでしょうが、そう感じてもおかしくないと思っています。だって、そのように書いているのですから。こんな短編でさえ、そこまで根源的な力をふりしぼって書いている私は、ひよっとしたら女性としても体力もリピドーも不足しているんだろう、と思っています。
私は、長編小説を書くとしたら、「子どもを産む力」どころか、「最後の血の一滴」まで絞って書くつもりです。
つまり、私はそこまでチャレンジしているつもりです。チャレンジしているからこそ、壁にも当たるし、不安や悩みもあるのです。
それで、よしこさんですが・・・。
丸尾さんやザッピーさんにくらべて、ずいぶん、私の言っていることを「実際のセックス」だけにとどめて読んでいらっしゃるように思います。
男性作家が「性欲の解消のために創作をしている」とは一言も書いていません。(そのようにお受け止めになること事体、それだけしか頭に無い人なのだろうか、と悩みます。)実際のセックス面に発揮されるか否かは問わず、彼らのリピドーのパワーをうらやましく思います。うらやましく思うのは私の自由です。そして私が(人間としてではなく、創作家として)うらやましく思う「激しさ」を持つ作家は、そういうパワーのある作家なのです。
そして他の女性の作家のことは知りませんが、私は「子どもを産む力を削って」書いています。他の方々がそうでないとすれば、「才能やパワーが十分にあって、そこまでしなくても十分な作品が書ける」人なのか、「出産育児と両立できる程度のうわべだけの作品を書いて満足している」人なのかで、どちらにしても「おめでとう」という以外のことばはありません。
性欲と創作力はまったく別物です。あたりまえです。(他人のことを「そんなこともわからない人なのね」といわんばかりに書く人の脳みそを私は疑っています。さらに文章読解力もない人のようですね。丸尾さんのご意見のどこに「ヘルさんはやっぱり性差にこだわっている」ということが書いてあるでしょうか?「文学の性差を論じるなら、やはり性差にこだわるべき」と書いてあるような気がするのですが。)
創作の話に戻ります。作品を、さらさらとうわべだけで書いてしまえば、あんなことに悩む必要はありません。私はでもそうしたくないのです。ありていに言ってしまえば、「自分も文豪になりたい」という野心以外のなにものでもありません。
ですから、どうして、「性欲が強くないと長編小説が書けないと断じている」などと言われなくてはならないのでしょうか。「断じて」などいません。また、「書けないことの言い訳」「結婚して子どもができてから書かないことの言い訳を今から用意している」などと言うのでしょうか。私はその辺理解に苦しみます。
ひょっとしたら、「結婚しないことの言い訳」「子どもを産まないことの言い訳」にする可能性はなきにしもあらず、ですが、「書かないことの言い訳」などと言われることは聞き捨てなりません。
私は、自分の予備エネルギーまで投入して書いています。文章が巧いか、内容が良いか、は別問題として、それだけは確かなことです。そしてそこまでやっているとき、芥川のような神経病みや梶井基次郎みたいな肺病病みのパワーの乏しい作家には羨望しませんが、文豪タイプの作家たちを羨望するのです。そして私はそれを、「性欲と同じところから発生している、人間の根源的なパワーで、性欲そのものではなくそれを昇華したもの」のように感じるのです。(これでも私の捕らえているものを言い切れていないんですがねえ。)
とにかく、私は「女性としてもっとも大切な力」を犠牲にしても書いているのです。それを(丸尾さんのように質問もせずに)「怠慢」であるかのように言うのはやめてください。(あなたこそ性差にこだわっていらっしゃるのではないでしょうか?女性が男性より劣っているかのように一見見える意見があったら、すぐヒステリーを起こす、そういうタイプなのではないでしょうか。それこそ、女性は男性より劣っているということを認めているようなものではないでしょうか。)

[No:76][よしこ]  [97/8/20  2:14:55] [Comment Number-74] 
ヘルねこさんへ

>「文豪」というような作家は「性欲が余っている」みたいな人が多いのです。
>ゲーテやトルストイのような「女の敵」のような種付け男くらいの性欲がなければだめだろうか

というような下品な表現をされていて、「性欲と同じところから発生している、人間の根源的なパワーで、性欲そのものではなくそれを昇華したもの」と後で言い換えるのは、潔くないのではないでしょうか。
 また丸尾さんは貴方のコメントの矛盾点をやんわりと指摘してあげたのであり、私にはどう読んでもヘルさんは性差に人一倍こだわっているように受け止められますが、いかがでしょう。

>他人のことを「そんなことも分からない人なのね」といわんばかりに書く人の脳みそを私は疑っています。さらに文章読解力もないようですね。

というような、それこそヒステリックな反応を起こす方なのだと知ったいまは、反論する気力も挫かれてしまいました。

パール・バックや紫式部は立派な文豪ではないのでしょうか?
須玉の短編ってなに?
ヘルさん、この私のコメントには応えなくて結構です。
それこそ目も当てられない状態になりそうですから。

[No:77][丸尾]  [97/8/20  3:39:41]  
ヘルねこさんの「性差」、に関して(私の考えを)書いておこうと思います。
 ヘルねこさん、ヘルねこさんの文章の中には、よく「性差」という言葉が出てきます。また「性差にこだわってはいない」ということも。そのように、よく、多く「性差」という言葉が出てくると、聞き手としては性差にこだわっているようにみえてしまったりするわけですね。それはヘルねこさんが性差にこだわっている、こだわっていないに関係なく。そのような感じで、私は、ヘルねこさんが性差にこだわっているように感じてしまうのです。ヘルねこさん、その点はわかってもらえますよね。余りに否定するから逆に怪しく感じる。これに近い感情、というか、感覚だと思いますが。もしかすると、(ここの掲示板など)書いているものに「性差」ということが出てきてしまうのは、意識的にではなく、無意識的にでもこだわっている証拠なのではないか、という気がします。私は上で「小説などは、書き手が思っていることが出るのでは、と、私は思っているので」と、書きました。このような場でも、もしかするとそうなのかもしれません。私はヘルねこさんのことを、本当に知りませんが、意識的に、性差にこだわってみては、と思っています。一度とことんまで、「性差の鬼」と、はたから言われるようになるくらいまで、意識的に、です(別にする必要は、全く、と何遍言っても足りないくらいにないのですが。まあ、当然ですね。ただ私がそのように感じているというだけなので、気にせずに)。
 あと、ヘルねこさんに質問です。ヘルねこさんはなぜ、小説を書いているのでしょうか?

[No:79][ヘルカッツェ]  [97/8/21  15:57:44] [Comment Number-77] 
ヘルねこさんです。

性差の問題ですが。
これについて論じると、必ず「こだわっている」などと言われるのです。私は「こだわっている」つもりはないのです。それでも「女性として」などと書くとそういわれるのです。
ずっと前、三島の「サド侯爵夫人」について「女性としてちょっとあれは・・・」と書いたとき、Ayaさんから「こだわっている」と言われたので、それで今回は「こだわっているわけではない」と末尾に書き添えたのです。
私は、自分自身が女性であることを誇りにしています。そしてそこにしっかり立脚して生きていきたいと思っています。そして何事かを為すにしても、そこから為したい、と思っています。
私は、何故か「女性解放運動家っぽい人」(本当の女性解放家ではない)につきまとわれることが多いです。そして彼女たちは「あなたみたいな人だったら男に伍して(または男に勝って)生きられる」みたいに言います。
私は「男に伍して」「男より勝って」という言い方が嫌いです。それは最初から男に負けていることを認めているようなものです。そもそも私は、相手が男であろうと女であろうと、誰かと競争したくなんかないのです。私は私なのですから、私であることを、私らしいことを大切に生きていきたいのです。
私であることから立脚してものをいえば、私という女性から立脚してものを言うことになります。
私が「女性として」と言うのは、「男性より女性が劣っている」などとつゆいささかも思っていないからそういうのです。(わかりますか、よしこさん。)
私が「性差にこだわっていない」と言ったのは、ひょっとしたら姑息に映ったかもしれません。でもそれは、「性差」ということばをつかっただけで、それを論じようとしただけで、よしこさんからのリアクションのようなものを受けることが多いからなのです。性差はあります。だから、世の中に存在するもののひとつとしてとりあげたら、このざまです。
残念ながら、平均的に女性が得意な分野と、男性が得意な分野があります。(そして世の中はおおむね、男性が得意な分野に価値を与えています。それはなげかわしいことですが、今ここでの論題ではありません。)しかし、女性が得意な分野に男性がチャレンジすること、男性が得意な分野に女性がチャレンジすることは(昔はできませんでしたが)今はかなりできます。
そして私がやりたいと思うことで、「男性の方が有利だよなあ」と思うことは何度かありました。そういうものにぶちあたったら、「どうやったら不利をカバーできるか」を考えます。今までそうやってきました。
今、私が書きたいような小説を考えるとき、(私の考えでは)男性、とくに何人も女性をはべらすような「英雄色を好む」タイプの男性作家が多いのです。「じゃあそういったものをとりいれるためには、どうしたらいいのか」が課題となってきます。
あくまでも、女性作家が男性作家より劣っているから、どうやったら男性作家のように書けるか、ではなくて、女性作家としての、あるいは今の自分自身の良さを残しながら、ある種の男性作家のいい面を取り入れられるか、という問題なのです。
どうして小説を書くか、という問いには、答えはありません。マラソンランナーに「どうして走るのか?」とたずねるのと似ています。たぶん、「お金のため」「名誉のため」「限界に挑みたい」「走るのが好き」といろんな答えが返ってくると思います。

では。



[No:80][ヘルカッツェ]  [97/8/21  17:14:12] [Comment Number-76] 
よしこさんへ。

まず「下品」と書かれたことにたいして。
確かに「下品な」表現です。私としては、それだけ「下品」な表現を使ってまで表現したいものがあった、と受け止めてほしかったのですが、それは受け止める人たちの問題ですので、それが「掲示板にふさわしくない表現」だというご意見だったとしたら、私は素直に従ったでしょう。
しかし、それならば「そのような表現は下品にすぎます」と最初に言えば良かったのです。最初にあのような反応をされてから、今そのようにお変えになるのは、そちらこそ「潔くない」と思います。
私にはどうしても、よしこさんが腹を立てているのは、「女性には文豪がいない」という点に感情的になっているようにしかおもえません。それも、勝手に「文豪」を一段高尚にとらえて、そういう高尚な存在がいないから女は劣っている、と言っているのだ、と勝手にご自分の内部で決め付けておられます。
どのように書いても、たぶん、「後から付け加えて潔くない」などとおっしゃるのでしょうから、無駄だとはわかっていますが、私は後から反駁できないからといって
>ヘルさん、この私のコメントには応えなくて結構です。
>それこそ目も当てられない状態になりそうですから。
などと逃げたりはしません。きちんとお応えしていきたいと思っています。
最初のコメントですが、あそこで私の考えを完璧にすみからすみまで書かなくてはならないでしょうか?よしこさんや丸尾さんの意見やご質問を得て、それはそういう意味でした、と言ってはいけないのでしょうか?そういうまじめな態度まで、「後から言い換えて潔くない」などとおっしゃるあなたは、いったいどういうつもりでしょうか?
「私はまちがっておりました」とはいつくばらせたいのだとしかおもえません。間違いも間違いでないも、あれは私の感じ方、私の意見ですし、それを間違いでした、と認めさせる権利など、誰にもありません。
また、「丸尾さんは貴方の矛盾点をやんわりとついてあげたのであり」と書かれておりますが、矛盾点もなにも、自分の感じたことをそのまま述べたにすぎないことの矛盾点をそんなに突いてつきくずしたいのでしょうか?むろん、あれは、私がぶつかっていた壁について苦しんでいたことばをそのまま言葉にしてしまったものなので、意味不明である、わかりにくい、わかりたいから「どういうことなのですか?」と聞いてきた丸尾さんの気持ちはわかります。私は、丸尾さんは最初ただ「意味がわかりにくいからどういうことか聴きたい」とおっしゃってくださっただけのように思っています。
それを、「全面的に丸尾さんを支持したい」というあなたの最初の反応事体がおかしなものだと思っています。
そんなに矛盾だらけの変なことを言っている人間だとすれば、無視したらいいのではないか、と思っています。
私は、性差にこだわっていないつもりですが、もし性差にこだわっている人間であるとよしこさん、あなたがそうお感じになるのでしたら、それを止める権利は私にはありません。しかし、あなたがそう感じるからといって、「私がまちがっていました。私は性差にこだわる、バカなセクシストでした。あなたのおかげで目が覚めました」などと言わされる筋合いはないのだ、ということは認識してください。
だいたい、最初からあなたの書きようはひどすぎます。「あなたこんなこともわからないの」などと、あなたは人に言うのでしょうか?(答えはだいたい予測がついています。「あなたがひどすぎるから言ったのよ。」でも、ひどすぎる人間に対してだってそんなことを言ってはいけません。)
紫式部、パールバックは文豪ではないのか?というご質問について。
なぜ、それを一番最初に言わなかったのでしょう?(しかし、この質問を最初にすれば、それこそ「女性に文豪がいない」と言われたことに腹を立てていただけ、ということになりますね。)
文豪の定義は、正確にはどういうものだかわかりませんし、ある人が文豪だとみなす作家を、別の人は全然そうは思わない、ということはあると思います。(ヘッセを文豪にいれる人と、いれない人がいます。私は文豪に入るとは思いませんが。)
私があの部分で言ったのは、(多少述べておりますが)、エンターテイメントではない長編小説を、数多く書いている人、と大体そういうことになります。
女性で名のある長編小説を書いている人のほとんどが、「一作のみ」です。「風と共にさりぬ」「嵐が丘」「ジェーン・エア」それに「源氏物語」などはいい例です。
(断っておかなくてはならないのは、たとえ生涯に一作であったとしても、それだからといって女性作家が男性作家より劣るわけでも、その作品が文豪たちのように何作も作り出した作品より劣るわけでもありません。こんなあたりまえのことをいちいち言わなければならないような方がこの掲示板を読まれているので、ここにはっきり書いておきます。)
確かに、パール・バックは、私の言う「文豪」に一番近い女性作家であることになります。残念ながら、私は彼女の長編小説は一編も読んだことがないので、答えを出すのは避けますが、私が作家として目指している感じとは少し違うような気がします。
それから、女性によし「文豪がいない」としても、それが女性作家が劣るということにはまったくなりません。(私には、よしこさんは、そう思っていらっしゃるようにおもえてなりません。だから、「女性に文豪がいない」ということにそんなに腹を立てられるのだと思います。文豪、ってそんなに偉いですか?それは自分から女性を劣っているとみなしているも同然です。)
例えば、パール・バックの「母よ嘆くなかれ」などは、あのような作品は男性にはほとんど不可能ではないか、とおもえるほどです。不可能、と言ってしまえば、また性差にこだわっているように受け止められますから、もっと穏当に言い換えましょう。男性と女性とを比較したばあい、あのような作品は男性が書くには非常に向いていない、と。
何度も言いますが、私はこれっぽっちも「女性が男性より劣っている」などとは思っていません。そういう観点から私の発言を捉え直すと、むしろかなりラディカルな男女同権主義者であることがわかると思います。女性に、私のそういう面を理解していただけないのは非常に残念です。

須玉の短編、については、書きたかったのですが、なにぶんインターネットカフェから書いているので、お金がかかるので、今はやめておきます。
くれぐれも、人様に何かを言うのでしたら、「どうせ目も当てられないことになるので返答は結構です」なんてお書きにならないことです。要するにそれって、自分だけ言いたいことを言って言い返されたくない、というだけのことでしょう?また、言い返されたことに対して言い返すだけの脳みそがないことをお認めになっているようなものです。ヒステリー女扱いされたくないのでしたら、きちんと返答を受け取ってください。


[No:81][丸尾]  [97/8/22  19:42:12]  
 ヘルねこさんへ。
 ヘルねこさんには私からの質問の答え(「 どうして小説を書くか、という問いには、答えはありません。」)をいただいたので、今回で、このことについては、私は終わりにしたいと思います。それでも、最後に、一応、私からヘルねこさんへと、伝えたいことがあるので、それを書いておきます。
 「子の曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
 ヘルねこさん、色々とどうもありがとうございました。
 これからも創作活動、がんばってください。
 それでは、また。

[No:82][ヘルカツッェ]  [97/8/23  18:21:20] [Comment Number-81] 
丸尾さんへ。

ヘルねこさんです。

掲示板のやりとりですか。たぶん、丸尾さんだけではなく、みんな(むろん私も)嫌だったと思います。でも、与えられた質問には、(それがいかなるものであっても)答えようと思っていますので、その点でひどい状態を招いたような気がしています。
丸尾さんがおっしゃた、「性差にもっとこだわってみてはいかがか?」という意見には、びっくりさせられました。たしかに、「こだわる」という言葉の語感にはネガティブなものがありますが、性差に「こだわる」こと自体に悪いことはないのかもしれません。
私が性差に「こだわっていない」と言ったのは、「性差を男女の優劣の差につなげるつもりはない」ということでした。そう書けば、よしこさんもあのような誤解をなされることはなかったかもしれません。
それから、「子の曰く、・・・」はどういう意味なのでしょうか?私は、楽しんで創作していますよ。たとえ、「子供を産む力を削って」書いていてもです。いえ、楽しいからこそ、そこまでしてしまうというか。ランニングハイに近い状態があります。

これからも丸尾さんもよしこさんも、ご意見を書き込んでください。私も、寄らせていただきます。

では、また。

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